石松子

私は羊だ。友達と呼べるものは、今は、もういない。昔、20年くらい前に、五頭の羊と、三頭の雄牛と二頭の雌牛と小さい人間が私の周りにいて、ガヤガヤしていたが、今はもう誰もいない。遠くに見えるハゲ山に何頭かいるのが見えるが、向こうはこちらが見えてないらしく、近づいてもこない。私から近づけばいいのだが、向こうの彼らには彼らの生活があり、向こう側の世界があるのだと思うと、どうしても行く気にはなれない。それに、わざわざこっちから行って、向こうから断られてもそれも癪だと思った。そういうのを「弱虫」というのだと20年前にここにいた小さな人間に教えてもらった。私が、私は「虫」ではない、羊だというとその小さな人間は、人間であろうと羊であろうと虫であろうと、そういう気持ちを「弱虫」というのだと教えてくれた。其の時はあまりしっくりこなかったが、最近になってその「弱虫」という言葉の意味が分かるような気がした。私の中にいるその「弱虫」という生き物は色々な場面で姿を表し、その度にその存在を私に明らかにすると静かに笑い、消えていった。彼が去るといつも深い霧があたりにたちこめ、それは私をいくらか落ち込ませ、そして静かに私自身を衰えさせた。

昔を思い出すことは今はもう、ない。
みなが去ってからすぐの私はじっと空を眺めたり、彼らの残り香を毎日必死で嗅ぎ回ったり、何もすることがなくなるとそっと記憶のカケラを繋ぎ合わし、静かに泣いたり笑ったりしていた。

私は孤独で寂しいわけではない。この大草原に私一人で20年間もいると、もう寂しいとか空しいとか、そういうネガティブなことは考えることもなくなり、私はただこの大地を毎日静かに眺めている。それだけでも飽きない。
大地は毎日、変化する。そして、動いているのだ。コミュニケーションはとれないが、この大草原にはさまざまな生き物が私と共に生活をしていて彼らを見ていると私は決して孤独や寂しさを感じることはなかったのだ。ただ、一つを除いて。

私はある日、昔小さな人間が私の耳元で絵本を読んでくれたことを思い出した。黒い兎と白い兎が愛し合う絵本だった。読み終えて、小さな人間は私に訪ねた。「愛ってなんだろう?」と。私は、本の最後の所を指差し、ずっと一緒にいられることだよ、と言った。今考えれば、それは愛じゃないかもしれないということに気づいた。小さな人間の母親は小さな人間のことを愛してると言ってたし、小さな人間は私を愛してると言った。それでも、彼らは今は私のそばにもういない。それでは愛とはなんだろう。もしかしたら、愛とは一時的な妄想で、この世には存在すらしないものなのかもしれない。私は本当のことが知りたくなり、いてもたってもいられなくなった。私は愛というものがしたい。誰かを愛し、愛されたかった。澄み切った青空や大草原の美しさを誰かと一緒に共有し、何かを分け合いながら見つめていたかった。私はこの思いを誰かに話すこともできず、伝わることもないまま、この生を絶えることが何よりも恐怖だった。この気持ちは毎日、毎日すこしづつ大きくなり、それと同時に眠ることが少なくなり、考えている時間が一日の中で多くなった。私はこのまま、私のことを誰も知らず、誰も必要とされずに死んでいくことを思えば、眠る時間さえ惜しかった。ある日、私はこの気持ちは決して「弱虫」なんかじゃなくて、立派な「思い」なんだと気づいた時、昔小さな人間が口をすぼめて、音を伸ばしたり、高くしたりしていたあの音の連続を思い出した。その途端、鼻の奥から何かのかたまりが弾け、私は胃に溜まったものを吐くようにその弾けた風船の中から液体が一気に流れ、洪水のように目から飛び出していった。泣いたのは初めてのことだった。それから私は、その音の旋律を思い出しながら、遠い山々に向かって大声で泣き続けた。三日三晩泣き続け、泣き終わるとなぜかとてもすっきりとしたさわやかな気持ちになることができた。

そして、私は自分の中に昔からあったはっきりしたものをやっと発見した。

視界にうつる大草原が大きく傾き、私はあの向こうにいる羊たちにこんなすばらしい音の流れを聞かせてやりたいと思った。