テレサ(cello)part3

その週末には彼から電話があった。どうして私の電話番号が分かったんだろうなんて思わなかった。不思議に年を感じさせるその声が受話器から聞こえてきた時には、本当に心臓が爆発するぐらいにおどろいたが、その後に続くごめん、ごめんと情けない声で言い続ける彼をおかしく思って、私は笑ってしまった。「お、笑ったね。」と彼も笑った。そんな私を自分で感じるのは久しぶりだった。笑いがこみあげてくる。心が躍っている。目に映るあらゆるものが踊っている。私と踊りたがっている。このまま永遠に踊り続けたい。風も、太陽も、空も、すべてが色彩に満ちあふれ、私を祝福していた。この世界はこんなにも鮮やかだったんだ。知らなかった。今まで何回も破壊してきた「関係」の青い糸が私の体から飛び散っていき、あらゆるものとぶつかって結び直されていく。あなたと笑い合うことでこんなにも世界は変わっていく。涙がこぼれた。おもわず、彼の声が聞こえてくる受話器ごと抱きしめたくなった。慈悲で包まれている世界中の人々を抱きしめたくなった。マザーテレサのように。


彼とは何回も抱き合った。抱き合う度に私はこの世のものではないような至福に包まれ、触れ合う度に、今までカラカラに乾いていた私の心を激しく震わせ、終わった後にはしっとりと濡れさせた。まるでそれは、出会うことが許されなかった二人が、誰にも知られない場所で激しくどこまででも落ちていけるスリルをいつも感じることができた。

しかし、時々見せるあの空虚に満ちた表情を垣間見る度、私にはこの人の空虚は埋められないと思った。そして、ずっとこのまま彼といると同じような空虚に満ちた自己嫌悪に落ちていくのではないかと恐れた。

そして、ある日を境に彼はおそろしく暴力的になった。それは、彼が夜中にごそごそと何かを取り出し、火をつけていたのを私が見てしまった日だった。何してるの?私の問いに彼はただニヤけるばかりで、パチパチと燃えるケムリを暗闇の中でおいしそうに吸っていた。

「お前にはわかんないんだ。お前には。」ただ、一言こういってただひたすらに火をつけていた。ゆらゆらと揺らめく火の明かりに照らされたその恐ろしい表情を暗闇の中で見たとき背筋が凍った。それが何かわからなかったが、何かいけない誘惑の匂いが部屋にたちこめていたので、それが麻薬だということだけは私にでも分かった。どうしてなの?、とふいに涙が頬を伝い、涙声の情けない声が出てきた。くやしさと、あきらめと、嫉妬が同時に私の奥底で湧き上がって、私は急いで彼のパイプを取り上げて、窓の外へ放り投げた。彼はそれでも、そのニヤニヤとした表情を崩すことなく、私を見ていた。パイプから落ちた火種が古い畳を焦がしていた。おもわず、私は部屋を飛び出していた。彼は何か叫んだように思えたが、気のせいかもしれない、振り返らなかった。誰かがものすごい速さで私を追いかけているような気がして、叫びそうになった。どこまで来たのか、疲れてその場にしゃがみこんだ。道のコンクリートが冷たくて気持ちよかった。このまま、ダンプカーにひかれても誰も私の死体をかき集めてくれる人はいないような気がした。

私はこんなに情けない男をなぜこんなにもいとおしく思っているのか、その時の自分では決して分からなかった。ただ、彼の空虚に満ちた表情がどうしても、忘れることができなかったのだ。



彼と別れてから、すぐにチェロを辞めた。


ある日、チェロを引き取りに来てもらうように業者に頼んだ。なぜか私はその日ものすごく慌てていた。作業員に書き込み用紙を渡されて、なぜか包丁を持っていった。作業員はそれを見て驚いてとても大きな声で叫んだ。何を叫んだかは分からないが、その声がまるで戦争映画で見た軍事司令官の命令の叫び声ようで、私は怖くなってその包丁を振りかざし、作業員の腕めがけて振り下ろした。包丁は簡単に腕にめり込み、鮮やかな紅が噴出した。それはあまりにも鮮やかな色で私はおもわず見とれてしまった。作業員はぶらんぶらんになった腕を持って、泣き叫びながらもう一つの腕で私を殴った。

いてえ、何やってんだこいつ、あたまおかしいんじゃねえのか、え? おれがなにしたっていうんだよ、いてえよ、これがいたえっていうのか、こんなにいたいのはじめてだよ、おい、いてえ、くそ、こんなばいとで、ちくしょう、やっぱひっこしにすりゃよかったんだ、ちょうしにのってがっきやではたらいたのがまちがってたんだ、いてえ、こんなちぇろなんていまどきもってるおねえちゃんなんていかれたいんらんしかいねえよなあ、え? ふつうならもっとぎたーとかべーすとか、おねえちゃんだったらばいおりんとかふるーととか、かうんだろうね、そんで、それをあそこにいれておなにーとかしちゃうんだぜ、でもこのいかれたいんらんはこんなばかでかいちぇろなんてもっていやがって、そんなんでおなにーすんのかよ、え? おまえのあそこはそんなにでかいのかよ、いてえ、なんでおれがこんなめにあっちまったんだ、ちくしょう、いてえよ、いてえ、どうしてくれるんだよ、え? おれのだいじなあかいちがどんどんながれていくじゃねえか、おい、きいてんのか、え? このいんらん、おい。

私はさっき殴られた頭をおさえながら、レコードのところへふらふらと歩いた。急に音楽が聞きたくなって、ペギー・リーのLDを探し、Taint Nobody Businessに針をおいた。柔らかい彼女の歌声が部屋に響き渡る。この曲を初めて聴いたのはあの男と初めて寝た時だった。ジャズなんて聴いたことなかったが、なんて心を落ち着かせる歌声だろうとうっとりした。このおばさんは、声を潰すためにわざわざ海でずっと歌ってたんだと男は腰をゆっくりと動かしながら言った。海岸で一人の女がこんな声を得るために海に向かって何度も同じ歌を歌って必死に練習している姿を想像してみた。それはあまりにもちっぽけで、滑稽だった。一つのことに対して、何もかも捨てて必死に追い求める姿を人に見ると私はおかしくてたまらなくなった。そんなことをしても何にもならない。誰も褒めてくれない。誰も認めてくれない。やっとそれが手に入っても結局それしかできなかったということだけなんだ。そんな限られた人生なんて、想像しただけで吐き気がする。

おい、いんらん、おまえ、わかってんのか、おい、いてえんだよ、おれは、けいさつよぶぞ、いや、びょういんのほうがさきだ、だってほら、こんなにちがでちまって、どうしてくれるんだよ、いてえ、おれはな、こんなばいとをしながらかねためてあのかわいこちゃんのためになんかかってやろうとしてるんだよ、あのかわいこちゃんはな、おまえみたいないんらんじゃなくてな、まいにちくまさんのにんぎょうとかだいてねてて、せっくすのせもしらないようなめちゃくちゃじゅんすいなこなんだよ、おなにーもしらないんだ、どうしてわかるって?そりゃおれがわざわざでんしそうがんきょうまでかってかんししてるからだよ、まいにちまいにちたいへんなんだぜ、にっきもつけなきゃいけないんだ、からだのどこにほくろがあるとか、どこにけがはえてるとか、さいきんあそこにちょっとうぶげがはえてきて、あのこはそればっかりきにしてる、かわいいよな、たまんないよな、おまえみたいにさかなのくさったみたいなにおいなんてしないんだぜ、きっとせっけんのにおいしかしないんだ、あ、そうだ、さいきんはせっけんじゃなくて、あそこにだぶのしゃんぷーつけてるんだった、わすれてた、わすれちゃいけないことわすれてた、おまえのせいだ、おまえがいきなりほうちょうでおれのうでをきったからだ、ちくしょう、ぜんぶおまえのせいだ、おまえなんかどっかのすらむでうしみたいなおっぱいだしていろんなおとこにまわされればいいんだ、あのかわいこちゃんとはぜんぜんちがうんだ、あのこはおれだけのもんだ、おれがさいしょにあのこのうぶげのはえたあそこをなめるんだ。

私は作業員のどんどん膨らんでいくあそこを見ながら、あの男のことを考えていた。彼と別れるとき、彼は私に粘土のかたまりのようなものを置いていった。アヘンだった。最初よく分からなくて少し舐めたりしてみたが、まずかったのでそのままにしておいた。しばらくたって、彼から電話がかかってきた。「おれがお前に渡したやつ、やったか?」「お前は溺れんなよな。お前はおれの初めての女だったから、お前ははまんなよな。捨てろよな。」と言ってしばらく沈黙があった。彼は何か私に言って欲しそうだった。思いっきりののしって欲しそうだった。泣きついて戻ってきてと言って欲しそうだった。

じゃあ、どうして私に渡したりしたの、おかげで私の人生はペギー・リーのようになった、一つのことしかできなくなった、誰にも関係を持てないようになった、私はあれからあなたのことをずっと待ってた、いつかこれを取りに来るんじゃないかって待ってた、石を積みながら、あなたが褒めてくれるかもしれないと思って、いろんなことを破壊しながら私は待っていた、孤独なんて思わなかった、あなたがいたから、あなたがすべてだったから。

結局、私は何も言わず電話を切った。そして、もう一度アヘンに火を点け白いケムリを深く吸った。


しばらくして、私はギリシャに来た。アヘンの最古の土地、ギリシャクレタ島にはデメテールと呼ばれる女神象がある。最初にアヘンを発見した女神、それは古代ギリシャ語でケシを意味するメコンと呼ばれる土地だった。そこは神と人間を分かつ土地。

この目で見たかった。彼が私に置いていったものの正体をずっと追い続けていたからだ。それがアヘンであろうと、石であろうと、関係性であろうと、破壊であろうと、マザーテレサであろうと、私にとって唯一の物だった。

イラクリオン考古学博物館のガラスケースに入れられたアヘンの女神は私に、お前たち人間には何も及ぶところなど一つもないんだと言わんばかりに、両手を上げ安らかに目を閉じていた。とてもやさしい顔をしていた。私にも、こんなやさしい顔ができるのだろうか。すべての痛みを解放出来る時、人間は、私でさえも、こんな女神のような表情になれるのかもしれない。アヘンはこの世で一番美しい自然の驚きと喜びの贈り物なんだとイングリッシュパブのギリシャ人が言っていた。それがなんであれ、私にとってはこれはただの粘土の固まりにすぎない、火をつけると過去への謝罪にしかない、と私がいうと、お前は中毒者だ、ガン患者のようなものだ、と言われた。

それから、私は昔ケシ栽培が盛んだったシキオンと呼ばれる土地へ足を運んだ。今では一本のケシもない。丘の上から見渡せる海がとても心地よかった。海のはるか向こうから吹いてくる風が私の頬をなでた。

ここで、どれだけの人がアヘンに依存したのだろう。どれだけの痛みをアヘンによって解放されたのだろう。私のように、底なしの沼に何かを埋めるようにアヘンを求めた人はいたのだろうか。きっといたと思う。人類のあらゆる痛みからの解放から、無感覚からの本当の痛みを引き出させるアヘンのすごさを知ったものもいただろうと思う。私は後者でよかったと思った。人間は痛みを忘れたら終わりだ、痛みがあるからこそ生きている感覚があるのだ。アヘンはそれを私に教えてくれた。

ここで過ごす夏は日本のどっぷりとした夏ではない。太陽の質が違う。私は今日もヌードビーチで寝転びながら、男のブラブラと垂れ下がる黒いペニスを見ながら、ドライマティーニをおかわりする。ここのアヘンは輸入もので質が悪いので、最近はコカを買っている。