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テレサ(cello)part2

チェロを始めたのは、その男と会う6年ぐらい前からだった。私は孤独だったが、その大きな存在感のあるチェロを抱きしめていると、不思議と心が安らいだ。まるでそれは男にあつく抱きしめられている時のようで、初めて手を触れた時、私の胸を熱くさせ、不思議だが少しだけ濡れた。弦は硬く締まっていて、それを指先で少しはじくと音のかたまりが胸を震わせ恥ずかしそうに私の中に入ってきた。それは低く、深く、いつまでたっても消えることのない振動だった。それはまるで、バージンを失った時のように繊細でどこか荒々しく、不器用な音だった。チェロの先生が弓で軽く擦った時には、私は一瞬気を失ってここがどこか分からなくなるほどだった。柔らかく、美しい旋律が私をどこにも行かせなかった。私は先生に正直にそれを告げると、先生はチェロやバイオリンのような弦楽器の弦にはさまざまな命が具わっているのだと言った。そして、私たちはその命を音として解放してあげているにすぎないと。


すぐに私は近くの大型楽器屋店でチェロを注文した。値段を聞いた時は、おもわず息を呑んだ。そんなに持ち合わせがなかったので、長年愛用してきたBMW109をすぐに売りに出した。昔の男に貢いでもらったものだったのだが、実はけっこう気に入っていた。タイヤも新品に交換したばかりだったし、車検も終わってすぐだったので、意外に高く売れた。売るのはやはり少し惜しかったが、チェロが家に届いた時には、本当に涙が出そうになった。私の部屋は狭かったので、部屋を見渡すとあまりのその大きな存在感に周りにごちゃごちゃとあったものがそのチェロを中心にしてとても落ち着いたように見えた。
そっと後ろから抱きしめると、チェロは恥ずかしそうに私を受け入れてくれ、まだその不器用な音をためらいながらだしてくれた。その振動は胸を伝って私の中に入り、私の中にあるすべての感情を昂ぶらせた。何もかもがその音色によって中和されていくような感動を覚えた。

そうして私はチェロの音色にはまっていったのだった。

ある日、小さなバーでタンゴのカルテットに参加した時、前のカウンターの端でひょろりと座高の高い男が激しく揺れる私の指先を見つめていた。演奏が終わっていつものように丁寧に弦を拭いていると、その男が話しかけてきた。少年のような無邪気な表情をして、おつかれさまです、と笑った。

笑顔は少年のようだが、服装や目つきや声のトーンは妙に老けていて、そのギャップが私の興味を膨らませた。お疲れ様、と私はわざといかにあなたと話したくないかということを体の全面から出しているように見せた。そういうことは得意だった。日常に誰に対してもそういう風に生きてきたから。

「よくここで弾いているんですか。」と彼はそんな私を無視するかのように、更に無邪気な笑顔で聞いてきた。私は無視されたことに、少し腹立たしくなり、そうよ、とぶっきらぼうに宙を見ながら言ってやった。

「へえ、いいなあ。おれ、ここは初めて来たんですけど、今日の演奏、よかったなあ。」彼も同じ方向の宙を見ながら言った。ふと、彼を見ると、さっきの無邪気な笑顔は消えていて、代わりにこの上ない悲しみに満ちた表情に変わっていることに気づいた。その時の彼の表情が今になっても、手に取るようにありありと思い出すことができる。

「あなたの指、見せてもらってもいいですか?すごいですよね、女の人であれだけ強いチェロベースを弾く方ははじめて見た。」と彼はおもむろに私の手を取り、指を撫でた。あまりにも自然で私はしばらくあっけにとられて、何も言えなかった。自分の胸が突然のことにだんだんと飛躍し始めているのに気づいた時、やめてよ!と叫んで、いつのまにか彼を突き飛ばしていた。こんなに自然に誰かが私の中に入ってきたのは初めてのことだった。

私の今までの努力がまるで無駄だったかのように、そういう私を見透かしているかのように、彼はごく自然に私と彼の間に関係を作ろうとさせた。それがものすごく不快であって、なぜかすこし安堵させた。

その後のことはあまりよく覚えていない。確か彼は、手をすり合わせてごめんを連呼し、それを無視しながら家に帰ったような覚えがあったのだが、私はいつのまにか、ホテルのバーでドライマティーニをおかわりしていた。酔いつぶれてたんだと思う。朝、起きると隣で知らない男が寝ていた。あの男だったら、と胸が騒いだが、寝ている後ろ髪を見ただけで違うと分かった。

なぜかあのわずかな時間で私は彼のあらゆる容姿を覚えてしまっていたのだ。髪は短く、ボサボサだった。細長い一重の目はゆるやかな曲線を描き、眉間に下っていた。尖った右眉に小さい古傷があって、笑うとそれがプクッと膨らんで深いシワになった。唇は薄かった。そして、大きな耳。

でもあの一瞬の悲しい顔はまるで別人だった。あんな顔をされたら誰だって掻き乱される。もしかしたら、私にだけ見せてくれたのかもしれない。あの笑顔も本当は私にだけ・・・。

私は下着をはきながら彼の一つ一つを思い出し、ニヤニヤした。そして、そんなニヤけてしまう自分がとても恥ずかしかった。今まで誰とも心の関わりを拒否し続けてきたもう一人の自分への恥だった。今更、私になにができるのかという恥だった。

でも、どうしてももう一度だけ彼に会いたかった。もう一度会ったら私は今度こそそんな自分をはっきり否定できるんだ。冷ややかな目を向けているもう一人の孤独な自分につぶやいた。もうちょっと待っててね、私はあんたを裏切らないから。

しかし次に彼に会った時には、すでに私はもう一人の自分を裏切っていた。