テレサ(toilet)

2009.04.26
私は今、ある公衆トイレの個室でこれを書いている。

どうしてこんなところにいるのか、どうしてここでこれを書こうとしているのか、自分でもよくわからない。しかし、ここにいるということに何かの意味を持つことはなんとなく理解している。意識ではなく、体でそれを受け入れている。何を書き残しても結局のところ、これから起こりえることにはなんら影響を与えることはないということはよくわかっている。それは、誰にも変えることのできない未来がそこに待ち受けているからである。それに、私はその未来に対してなんらかの変化を求めているわけでもない。ただ私は、この場所で、この瞬間に、起きた事実について、書かなければならないのだ。それはとてつもなく、膨大な空間に小さな石を投げ込んでいるようなもので、投げ込まれた言葉たちは、一様は輪郭を作り弧を描くが、巨大な沈黙に飲まれて死んでしまう。それでも、あきらめずに投げ込んでいると、私自身に一つ一つの言葉たちの死体が還ってくる。それらを繋ぎ合わせ、もう一度新しい言葉を誕生させる。それができるのは、私自身がその物事に対して何を求めているのかが、明確だからである。そもそも言葉というのはその物事の周りにある死体に過ぎないのだ。それが明確であればあるほど、その言葉たちの死体はいつでも何回でも生き返り、新しく誕生させることができる。


物事の事実を書くのは、果てしない。イメージや妄想を書くこともまた果てしない。私がどうやってこれを書いているのか、どうやってここまでたどり着いたのか、それは事実ではない。それはただのムーヴメントだ。そういうのは、ただの過程であって事実ではない。私がここで提示している事実とは、私だけのものであって、その中にだけ私の事実が詰まっている。


イメージはその世界を作る。イメージは事実に成りえるのだ。それがここにいる理由だとしたら、事実は私のイメージより生まれ、それに沿ってムーヴメントが起こっているのだ。イメージと現実の境界線があやふやになる。私はどこにいるのか、何を見ているのか、まったくわからなくなる。そこだ。そこに私はペンを下ろす。言葉を投げ込む。物事をイメージから生まれた言葉で詰めていく。すると、ありありとした新たな世界がそこに誕生する。そこの狭い一室で私は柔らかすぎないソファに深く座りながら、誰かを待っている。誰かがそこのドアをノックするのを待っている。しかし、いつまでもそのドアを見つめていても何も変わらない。誰もその部屋の存在など知らないのだ。知っていてもノックする人など、今ではいないのかもしれない。急にバンッと誰かが開けるのかもしれない。私が寝ている間にこっそりとドアを開け、私の寝顔を見て笑っているのかもしれない。いずれにせよ、私がこの部屋で待つということは、ある種の人において、ある種の世界において、まったく意味を持たないのだ。それでもこの世界は何もなかったかのように動いていく。地球は私の関係を拒否するようにグルグルと回り続ける。何も変わらない。世界の当事者になりたくて、私は何もかも飲み込んでいく膨大なその宇宙に強く嫉妬する。その宇宙とは刻々と刻み続けるこの一瞬の中にあるかもしれない、と思う。そこに向かって待ってくれと叫んでも、何も変わらない、と思う。誰も待ってくれない、と思う。


何も変わらない自分を置いて、世界は常に動き、変化し続ける。ここにある思いや、こんなにはっきりとした確信だって、変化という膨大な宇宙に飲み込まれる。そして、それでさえも、変わっていくのだ。あるいは、死んでいく。この一瞬に生まれた言葉さえも。










そして、私はこの公衆トイレの個室に入った。











ここは、恐ろしく、狭い。この狭い箱の中に置かれているべきものがすべて詰まっていて、そこがなんとなく私に不快感を与える。便器、デンキブラシ、トイレットペーパーのピラミッド、黒と白が分からなくなるくらいに汚れた床のタイル、黄ばんだ便器の底には、私がたった今落としてしまったボールペンの先がまるでずっとそこにいたかのように、奥底でひそかに沈黙を保ち、私を見つめている。
ここの個室トイレのつくりはどこか妙である。通風口もなければ、換気扇もない。完全に外界から遮断されている。この扉がなければ、私はこの個室と共に宇宙へ放り出されていても決してわからないだろう。

おぞましいほどに汚れきった壁には、くたびれたオカマたちが自分の存在を世界に訴えるように書いた射精したペニスの落書きが残されていた。その下には電話番号らしきものがかかれていて、プリーズコールミーと小さく書かれている。私は携帯電話を取り出し、番号通りにゆっくりと押してみた。何回かのコールを聞き、誰も出ないことを確かめると、便器の奥底に静かに電話を落とした。カランという音と共に先ほどのボールペンの先の上にかぶさるように沈んでいった。









私は、深いため息をついた。






さて、どうやってここから出ようかと考える。この状況から出るのは決して容易ではない。トイレの隅で見たこともない虫があおむけになって死んでいた。そこにはもう二度と戻ってくることのない時間が冷たく横たわっていた。どれだけ叫んでもその死からは逃れることはできないのだ。
私は、と思った。私がこの状況にいるということはいかなる条件によっても、それはもうすでに横たわっているそこの死のように何にも変えることのできない真実であり、何も動かすことができないのかもしれない。

しかしながら幸運か不幸か、まだ私は動けた。そして、考えることができた。それが唯一、そこに横たわっている死と向き合える私の最後の抵抗だった。

もう一度カバンを探ってみる。先の取れたペンと、血の付いたノートと、メンソールのタバコ、銀紙に包まれた小さい粘土の固まり、えっと、これはなんだっけな、そうだ、おととい麻雀屋のオーナーの中国人から久しぶりに購入した上海産のアヘンだ。パイプもある。
まずはパイプを出してみる。龍が絡みついた翡翠のパイプで、心が奪われるような深く透き通る緑の色が銀の龍と微妙な色合いの中で冷たく研ぎ澄まされている。それを眺めながら深く口に含んだ。昔の畳のにおいがした。このパイプは昔の男が私の部屋に置いていったものだ。。
フルートのように横に持って、まずは柔らかく固められたアヘンを耳掻き一杯分をとって針金の先に巻きつける。それを火にかざしながらくるくると回し丸い形に整えていく。上海のアヘンは質がよく、特に温まると柔らかくなって飴のように扱いやすくなるのだが、いつまでも回しているとすぐに固まってしまう。そして焦げやすい。火に近づけ過ぎると燃えかすを肺に吸ってしまうことになるので、練り香のように直接火にふれさせずに熱し、ほのかなケムリを起こさせる。そしてジュウジュウいってきたら手早くパイプの穴に持っていき、その瞬間にすーっと吸い込んでいく。
この手順もその男が教えてくれた。私がアヘンについて興味を持ち出したのはアルチュール・ランボーが書いたある一節をその男に教えてもらってからだった。

「いかにも愛らしい芥子の花で僕の頭をかざってくれた悪魔がわめく、(死を手に入れるんだな、お前のありったけの欲望とおまえのエゴイズム、七つの大罪全部一緒に)」

そうだ、七つの大罪だ。私はこの言葉を思い出しながら、アヘンに火をつけようとする。ただ、それを繋ぎとめるために。


その男とはアヘンに溺れながら何回も恥ずかしいことをした。私の初めてオルガズムを経験した相手でもあるが、それは最悪の思い出でしかない。(アヘンの固まりがゆっくりと火に近づく)
その男は私の足の小指を美しいと言っていつまででも舐めていた。私はそれは決して嫌ではなかったが、ぶよぶよになるまで舐められていた私の小指は私の体の一部ではないように感じた。(火は待っていたかのように固まりに吸い付き、起き上がるようにふわっと膨らむ)
また、あの男を思い出してしまった。あいつは変態だった。そして救いようのないほどに、ウツだった。アヘンがきれるといつも死にたいとか、一緒に死のうとかすぐに言うやつだった。その度に私は彼に対して嫌気がさして、いつもイライラした言葉を投げつけた。「お前」とか、「死ね」とか叫びながらヒステリックにそこら中のものを投げつけた。彼はおびえた目をして私を見つめ部屋の隅の方でガタガタと震えていた。そんな彼を見て、ますますイラついて彼に暴力でぶつけた。それはまるでサディズムの女王のように支配的な思潮に私は酔いしれていた。(グルグルと針金を回しながら、白いケムリを出す)
だけど、彼がアヘンを熱している時の姿を見るとなぜか安心した。彼はいつも感心してみとれるほどに、アヘンの固まりを操るのがうまかった。ガンジャもときどき吸ったが、これをジョイントに巻いていくのがとてつもなくうまかった。どうやって、そんなに手早くきれいにできるのかと聞いたら、おれの頭の中にはいつも小さな虫がいて、そいつがおれの手先を操っているんだよと冗談を言って笑ったが、私は本当だと思った。(ケムリは緑色の翡翠を通り抜け、肺の隅々まで行き渡る)
私は白いケムリの奥で彼のニヤニヤした顔を見るのが好きだった。サティやチャイコフスキーの激しい旋律をLDで聴きながら、彼に抱かれるのが好きだった。私の足の小指を口に含みながら、上目遣いで私を見る視線が好きだった。
彼は、彼は、彼は。
いつのまにか私の体はあの男でいっぱいになっていく。(我慢していた呼吸をゆっくりと白い空中へと返していく)


だんだん目がうつろになってきた。ケムリが目に入った。その瞬間、パイプが手からこぼれた。ガラスの鋭い音がトイレ中に響きわたり、そのあとに続くようにものすごく重い沈黙の波が押し寄せてきた。その沈黙は先ほどの鋭い音を閉じ込めるように包み込むと、沈黙はキーンとした遠くから聞こえてくる耳鳴りに変わった。気づいたときには、私は便器にうつぶせて嗚咽するように泣いていた。ガタガタとふるえながら、割れたパイプのガラスの破片を握り締めて泣いていた。

泣くのなんて何年ぶりだろうか。しかもこんな風に一人で泣くのは初めてかもしれない。男をだますために泣いたのは何回もある。こんな風に過去を振り返ってセンチメンタルになるのが、人間で一番最低な感情だと思っていた。友達が男にふられて毎日泣きながら電話してきた時に、私はぜったいこんな女にはなりたくないと誓ったんだった。自殺してやると言った彼女に簡単に男に依存するような女はさっさと死ねばいいと言ってやった。翌日、彼女はリストカットをして病院に担ぎ込まれた。傷は浅く、死ぬことはなかったが、病室のベットで彼女は両親にどうしてそんなことをしたのかと問いつめられ、私に死ねと言われたとまためそめそ泣き始めたらしい。その日に、その両親はものすごい形相をして私の家に怒鳴り込んできた。私は知らないと一点張りに叫んで追い返したのだが、その後にいやがらせの電話やファックスが多くなり、私は一度彼女に電話したことがあった。その時彼女に会いたいと言われ、会いにいった先で彼女と何人かの男に強姦された。終わった後に、彼女はハイヒールで倒れた私の顔を強く踏みつけ、あんたみたいなやつは、と何回も言っていたのを思い出した。

それでも私は泣かなかった。泣いたら終わりだと思った。男がアヘンでズタズタになって死んでも、この世で信じれる人間が誰もいなくても、大切にしていたこのパイプが割れようとも、私は泣かないんだ。

    でも、どうしても、さっきから胃のほうから込み上げてくるものが、嘔吐するように溢れてきて、抑えきれない。

私は泣きたいんだ。私は何かに泣きたいんだ。それが、何か分からなくても、今まで失ってきたものを埋めるように泣きたかった。悲しいんじゃない、寂しいわけでも、空しいわけでもない、これは一種の宇宙の儀式のようなものなんだ、どんなに幸せでも、どんなに心が満ち溢れていても、人はある時に、一人で何かに向かって泣かなければいけない。
身心の痛みはこのアヘンが埋めてくれる。だが、この宇宙の法則による、無限の痛みは何も埋めてくれない。誰もそれを支配することはできない。その絶対的な何かに対して私は激しく涙を流している。そう考えると、私はこの宇宙と、その絶対的何かと、一体化できるように思えた。常に嫉妬し続けていたものに、私が泣くことによって右にあるものと左にあるものとの調和が許されたように思えた。私が提示したかったのは、これだったんだと涙をぬぐいながら思った。アルチュール・ランボーのあの詩が私の頭にこびりついて離れないのも、こういうことだったのかと思った。「七つの大罪」とは、私が泣くことによってすべて許されるのだ。
その時、私はトイレの隅に小さなマザーテレサの幻覚を見た。そしてそれは私に、すべてを許しなさいと訴えかけていた。

私は拒否した。








そして、私はトイレを出て、彼が待つテーブルへと戻った。