chaos 2


少年はそれまでほとんど姉に育てられた。
母親は少年を産んだ直後に白痴になり、姉は6歳のころから、少年や兄の世話で毎日を過ごした。父親は漁師で3ヶ月に1回帰ってくるかどうかもわからないほどで、河を下ってはるか隣国へ魚を売りに行っていた。その時の父の存在はまるで天災のようだった。ある日窓を開けたら、いきなり父が立っていて殴られる、姉は髪を掴まれ裸にされ犯される、母がそれを見ながら指を差して笑っている、兄はそんな姉を守ろうと父に飛びかかる、少年はだまってそれを監視している、そういう役割だった。それはそれぞれがその役割について、それぞれを演じているような時間だった。少年はこの時間を忘れないでおこうと思った。僕はここにいて見る役目だから見てわすれないようにしなければ、と思った。


天災が去った後の家の中は、いつも少年が一人で隅々まで片付けた。姉は全裸で床に転がっていて、兄は顔中に血だらけの瘤を作り、母ははだけた胸を見せながらクスクスと体を震わせて笑っている。裂かれた蚊帳を広げきれいにたたみ、割れた皿を一枚一枚拾っていく。それが全部終わると姉の服をたたんで姉の近くにそっと置く。兄を外へ連れて行って井戸の水で固くしぼった布で傷口を丁寧に拭く。母にご飯を食べさせ、ドラム管に水を張り薪で下から火をかける。母と姉を連れて行き、背中を流してやる。その時になって初めて姉は泣き出し、それから夜通し泣き声が止むことはなかった。そういった一連の流れを少年は何度も経験していたので覚えている。それは記憶ではなく、体が、何千何万という細胞の核となる部分がしっかりと覚えている。


その時、父が憎いと思ったことはない。姉や兄はむろん憎んでいたかもしれないが、少年の心にはまだ誰かを憎いと思える機能が備わってなかったのかもしれない。だから父のことはただ自然とやってくる神からの災いだと受け入れていた。それによって、姉や兄が傷ついてしまうのは自分はどうしようもできないことなのだと。


姉は普段は静かに顔に笑みを浮かべていた。例えば、少年がわがままに物を欲しがった時も、兄が酒を呷り姉に対して愚痴を並べ立てる時も、母が突然気が狂ったようにそこら中の物を投げ飛ばす時も、いつも冷静で優しく誰かのその手を握り、風のように微笑んだ。兄は反対に姉のそういうところに苛立ち、家に帰らなくなってますます酒に溺れていったように思える。


ある日、スコールで畑に出れず姉が家の中で窓の外を見ながらいつもの裁縫をしている時だった。針はうねるように布を走り、姉の細く丸い指先を追いかけて走っていった糸が吸い付くように布地に縫われていく。少年は姉のそんな手先を見るのが好きだった。雨が降ると姉は決まって畑から帰ってきてから黙って裁縫に取りかかるのだった。雨の音と、するすると登っていく鋭く光る針の細かな音だけが家の中に響き、それは少年にとって何より落ち着くことができる音色だった。


姉の手先をぼんやり見ていた少年は、その手先に落ちる水滴を見逃さなかった。それは雨のしずくだったのだけれど、姉は今にもこぼれ落ちそうなほどの涙をつぶらな目にいっぱい溜めて、雨を見ていた。表情にはいつもの微笑みはかすかに残っていたように少年は見えた。目を見なかったらいつものような表情だったろう、しかしその目は何も見ていなかった。激しい雨が窓から入り込んできたが、姉はその日窓を閉めようとしなかった。窓のひさしに降る雨粒が姉の頬に弾けとんでも、黙々と手先を上下に器用に動かし続けていた。姉の長く黒い髪からつたう水滴が涙と共に、指先に落ちていく。


姉は静かに顔を歪め泣きはじめた。少年はたまらなくなってもう一度針のほうに目を向けた。針は魂を込められたようにひとりでに動いているように見えた。


次の日に姉は町に出ると言い出した。母と家畜の世話を頼まれた少年はまだ13歳になったばかりだった。村の人たちが引き止めたが、彼女の意思が固いということは彼女の目が語っていたので、皆はただすすり泣くしかなかった。少年はただ一人泣かなかった。


「行ってくるね。母さん。」
母はただぼうっと窓の外を見ながら何かぶつぶつと一人で話している。急に、ワアッと叫んでみんなが腰を抜かすのを見るのが最近好きなのだ。その時も同じことをしてケラケラと笑っていたが、誰も見ていなかった。

「ロイ、母さんを頼むよ、すぐに帰ってくるからね。ロイ!」
姉がそう話しかけた時には、もう既に少年は河の方へ駆け出していた。姉がどうして泣いていたのか、どうして街なんかに行くのか、そんなことを考えている自分が急に嫌になった。

行きたければ、どこにでも行けばいい。おれには関係ない、姉が泣いていた理由など知りたくもないんだ。何もかも嫌になって、そこから逃げてしまいたいと思った。あの河のように留まることを知らず、何かに流されながら常に変化し続けたいのだ、おれは。


少年はヤシの木の前まで、今までないくらいの早さで着いた。そこから坂を転がるようにして河岸まで走った。足場の悪い岩を駆け上がりながら、何度も岩場の間に足をとられ擦り傷を負ったが全然痛くなかった。

血だらけになった足を引きずりながら、やっと兄と昔よく来ていた岸壁に辿り着いた。

そこから見る河は何度見てもそれぞれ違う形を見せる。河辺に住む人たちが洗濯したり体を洗ったりしていた。

兄ちゃん、おれはこの街が嫌いだ、みんな何を考えているのかわからない、でもあの街には行きたくない、女が売られるってなんだ?姉はどうして食われにいくんだ?腹を引き裂かれて腕と足が切断された姉を想像した。真っ赤だった。あの時の兄の頭のように真っ赤だ。

少年は雄叫びをあげながら助走をつけて岸壁の角を片足で蹴った。その瞬間自分の体がふわりと宙に浮き、落下しているのさえわからなくさせるほどの風が少年を包んだ。


おれは、この風になりたい。一瞬でもいい、そうだ、この感覚だ。