chaos

深い河が目の前で流れている。
昨晩上流で降った大量の雨で河は増水し、流れはいつもよりも急だ。
細い流木のようなものが右から左へ少年の視界を猛スピードで走って行く。

これからもっと増水してここまで来そうだな、と少年は自分が立っている高い堤防から見下ろしてそう思った。
少年ははるか向こうの上流の方から吹いてくる強い風をうけながら、我が家から漂う羊スープの匂いを感じることができた。
それに今日はきっと昨日よりも雨が降る、雲一つない青空を見上げてそう思った。
少年は先ほど降りてきた坂を一気に駆け上がった。
駆け上がったところの小高い丘には一本だけ高いヤシの木があった。
もう何年も前からずっとこの場所にあるのだと村長が言っていた。この木にできるヤシの実だけは、飲んではいけないという村の昔からの言い伝えがあった。
そして住民はそれを深く信じていたのだけれど、泥酔した若者がそのヤシの木に登って実の房ごとを切り落としてしまったのだ。


その時のことは少年も覚えている。村人たちが夜中に集まって騒いでいて、母も父も外で立ち尽くしていてぽっかりと口を開けていた。姉の奇声が少年を深い睡眠から一瞬で目覚めさせ、うちを飛び出した瞬間にものすごい地響きと共に村人たちの叫び声があがった。見ると頭を真っ赤な血に染めた若い男が倒れていて、そしてまだ小さく痙攣していた。

よく見るとそれは少年の兄だった。
母は泣き叫びながらその場で失神して地面に向かってまっすぐに倒れ、父はずっと口を開けたままそこから動こうとしない。その間を姉がすり抜け長男のもとへ駆け寄る。兄は白目をむき、口から大量の白い泡を吐いていた。姉は彼の頭を抱きかかえようとしたが、頭のどこからか溢れてくるヌルヌルとした温かい鮮血で滑って何度も落としそうになっていた。姉の真っ赤に染まった手はつかみどころのない高い宙に浮かびあがったと思うとそれはすぐに姉の顔を覆い、聞いたこともない低い声でうめき始めた。


その時の幼かった少年の目はその光景にある色彩だけを焼き付けようとしていた。少し欠けた黄金の満月、黒い空、黄色い砂、ヤシの葉、赤く染まった姉の紺の裾、誰かが持ってきた松明の炎の中で光沢を帯びた様々なものが色彩を浮かびあがらせ、それは少年の脳裏に深く刻まれたのだった。     


少年はこの丘に立ってそのヤシの木の峰にそっと手を置いてみた。ここから見れば村を取り囲むようにできた三角州を一望できる。北の方を見ると、死んだ兄がいつも言っていた町が小さく見える。あの町には人がアリのようにいるんだぜ、女たちがきれいで男がその女たちを買ったり売ったりできるんだ、おれはあそこへ行って、女たちを使って大金持ちになるんだよ、お前も一緒に来るか。


少年はどうして女たちを売ったり買ったりするのかがわからなかった。町の人間は女たちを食べるのだと思った。だから姉が町に出稼ぎに行くと言い出した時に少年は恐ろしくなりやりきれない感情が涙や叫び声に変わった。食べられないよ、大丈夫。姉は笑っているのか泣いているのかわからない顔で少年をなだめた。
姉は村でも一番美人だと隣人が話していたのを聞いたことがあって、姉がそういう顔をした時にはもう姉とは会えないのだということが突然少年の頭に入ってきたのだった。