テレサ(Cello) part1

2009.04.26 Sunday 01:20
また、夏がやってきたのだ。

早いものでここに住むようになってから今年でもう十三回目の夏を迎える。そういえば、あの時も同じように、こんな暑い日に遠い空で浮かぶ白い雲をぼんやりと眺めていた。 
あの時と違うのは、私が住んでいる場所がまったく変わった言語を話すことと、あの時よりも幾分、年を取ってしまったということだけだった。

古くなったチェロはあれ以来弾いていない。誰も触れることのない黒い沈黙に包まれ、くたびれた壁にもたれながら眠っている。すっかり錆びた四本の弦の上には、蜘蛛さえ出ていってしまった時間の経過だけがこんこんと降り積もっている。
私はそのチェロが置いていった時を眺めていると、ものすごくぼんやりしてしまう。

時々、その上に手をかざしてみる。ひんやりとしたその空間は、沈黙を守り抜いて静かにもてあました時間を殺していた。

もしもあの時、私があの男に何か言ってやれれば、彼は何も失うことはなかったんだろうと思う。それよりももっと大切なものがあって彼がそうしてしまったという事実がその理由としてあるのだが、結局のところ、私は何もできなかったように思える。誰も動かせないような決断がしっかりと彼の奥底で根をはり、立派な葉をつけ、青々とした果実が成っていた。それが自然と熟して落下し死んでいくことは、私自身とは全く関係のないところで行われている一つの自然のサイクルにすぎなかった。たまたま、そこにいた私は砂煙に巻かれて、うっすらとそれを見てしまっただけだった。

しかし、一般的に人はそれを「関係」という。ただの傍観者でさえ、映像や音としての情報が自分の中に入ってくるだけで、その瞬間からそこにある実態に「関係」を持ってしまう。ただそれは受身だけの「関係」なのだが、それに応じて何かしらの反応をそこに示してしまうとその「関係」は確かなものになり、少なからずその相手の世界に影響を与えてしまう。
私はどちらかというと、彼に出会う前にそういうことは熟知していた。そして、そういうことに対してとても慎重だったと言ってもいい。

だからその頃、私は決して他人の発した情報を受け入れようとしなかったし、私自身からも誰に対してもあらゆる「関係」を完全に遮断した。例えば、顔の表情を変えないように、毎朝化粧する時間を短くして、代わりに長い時間あごや頬の筋肉を丁寧にほぐしていたし、人と話す時も、イライラした言葉を並べ立てて口が切れそうなぐらいに早口にしゃべるようにした。しぐさや癖も自分なりに調節しながら、新しいことをテレビや新聞などで研究しながら自分自身のものとして作り変え、取り入れていった。


社会ではなるべく目立たないように心がけた。どうしても「関係」を作らないと生活できないような相手とは、なるべくうまくやった。まず境界線をまっすぐに引き、シンプルな言葉を選び、シンプルな相槌をうち、シンプルな情報の交換を行った。その相手は相手にしかすぎなかった。私と相手、私と何か、私と石でも会話は成り立ちそうな気がした。それに気づいた相手は顔を不思議な形に歪め、居心地悪そうに私から去っていった。そういった私の生活は、私をある程度孤独にさせたが、昔のような他人に期待したり他人に自分を見出したりしなくなった分、洞穴のような空虚感を味わうことは少なくなった。私は自分で自分の世界を築き、そこに生きていた。外部と内部に分け、その繋がりを持たないように常に心がけていた。

何もすることがない日には、海岸に出掛け、石を集めた。なるべく丸くて小さい石を集めた。そして、その石を大きいものから順に一つずつ、ゆっくりと積み上げていくのが何よりも楽しかった。不安定に積み上げていく危険とスリルに満ちたそのゲームは、バランスを失い、崩れ落ちた時が一番興奮した。崩れていく瞬間に何度もフラッシュバックのような断片的な映像を脳裏に見た。晴れやかに野原を駆けていく子供たちの笑顔や、豚を解剖する時の実験画像や、何千万という人々がイスラム教の式典に同時に集まってくる時の映像などを、リアルに、そして一瞬に見た。それらは私を幾らか圧倒し、抑制し、崩れ落ちていった後にはオルガズムを終えた時のように私の精神を安定させた。その快感は破壊だった。今まで一生懸命に積み上げてきたものが音を立てて一瞬で崩れて行く姿は、あまりにも滑稽で、おかしかった。そして、何度もリセットされていく石たちと時間を比較し、私は私とその石とその物事の破壊の繋がりについて考えてみてみると、そこには破壊における爽快感にその深い「関係」の結び目を見つけることができた。


あの男に出会った時、彼は私のその破壊に対しての定義を何度も褒めてくれていた。

 

 

テレサ(toilet)

2009.04.26
私は今、ある公衆トイレの個室でこれを書いている。

どうしてこんなところにいるのか、どうしてここでこれを書こうとしているのか、自分でもよくわからない。しかし、ここにいるということに何かの意味を持つことはなんとなく理解している。意識ではなく、体でそれを受け入れている。何を書き残しても結局のところ、これから起こりえることにはなんら影響を与えることはないということはよくわかっている。それは、誰にも変えることのできない未来がそこに待ち受けているからである。それに、私はその未来に対してなんらかの変化を求めているわけでもない。ただ私は、この場所で、この瞬間に、起きた事実について、書かなければならないのだ。それはとてつもなく、膨大な空間に小さな石を投げ込んでいるようなもので、投げ込まれた言葉たちは、一様は輪郭を作り弧を描くが、巨大な沈黙に飲まれて死んでしまう。それでも、あきらめずに投げ込んでいると、私自身に一つ一つの言葉たちの死体が還ってくる。それらを繋ぎ合わせ、もう一度新しい言葉を誕生させる。それができるのは、私自身がその物事に対して何を求めているのかが、明確だからである。そもそも言葉というのはその物事の周りにある死体に過ぎないのだ。それが明確であればあるほど、その言葉たちの死体はいつでも何回でも生き返り、新しく誕生させることができる。


物事の事実を書くのは、果てしない。イメージや妄想を書くこともまた果てしない。私がどうやってこれを書いているのか、どうやってここまでたどり着いたのか、それは事実ではない。それはただのムーヴメントだ。そういうのは、ただの過程であって事実ではない。私がここで提示している事実とは、私だけのものであって、その中にだけ私の事実が詰まっている。


イメージはその世界を作る。イメージは事実に成りえるのだ。それがここにいる理由だとしたら、事実は私のイメージより生まれ、それに沿ってムーヴメントが起こっているのだ。イメージと現実の境界線があやふやになる。私はどこにいるのか、何を見ているのか、まったくわからなくなる。そこだ。そこに私はペンを下ろす。言葉を投げ込む。物事をイメージから生まれた言葉で詰めていく。すると、ありありとした新たな世界がそこに誕生する。そこの狭い一室で私は柔らかすぎないソファに深く座りながら、誰かを待っている。誰かがそこのドアをノックするのを待っている。しかし、いつまでもそのドアを見つめていても何も変わらない。誰もその部屋の存在など知らないのだ。知っていてもノックする人など、今ではいないのかもしれない。急にバンッと誰かが開けるのかもしれない。私が寝ている間にこっそりとドアを開け、私の寝顔を見て笑っているのかもしれない。いずれにせよ、私がこの部屋で待つということは、ある種の人において、ある種の世界において、まったく意味を持たないのだ。それでもこの世界は何もなかったかのように動いていく。地球は私の関係を拒否するようにグルグルと回り続ける。何も変わらない。世界の当事者になりたくて、私は何もかも飲み込んでいく膨大なその宇宙に強く嫉妬する。その宇宙とは刻々と刻み続けるこの一瞬の中にあるかもしれない、と思う。そこに向かって待ってくれと叫んでも、何も変わらない、と思う。誰も待ってくれない、と思う。


何も変わらない自分を置いて、世界は常に動き、変化し続ける。ここにある思いや、こんなにはっきりとした確信だって、変化という膨大な宇宙に飲み込まれる。そして、それでさえも、変わっていくのだ。あるいは、死んでいく。この一瞬に生まれた言葉さえも。










そして、私はこの公衆トイレの個室に入った。











ここは、恐ろしく、狭い。この狭い箱の中に置かれているべきものがすべて詰まっていて、そこがなんとなく私に不快感を与える。便器、デンキブラシ、トイレットペーパーのピラミッド、黒と白が分からなくなるくらいに汚れた床のタイル、黄ばんだ便器の底には、私がたった今落としてしまったボールペンの先がまるでずっとそこにいたかのように、奥底でひそかに沈黙を保ち、私を見つめている。
ここの個室トイレのつくりはどこか妙である。通風口もなければ、換気扇もない。完全に外界から遮断されている。この扉がなければ、私はこの個室と共に宇宙へ放り出されていても決してわからないだろう。

おぞましいほどに汚れきった壁には、くたびれたオカマたちが自分の存在を世界に訴えるように書いた射精したペニスの落書きが残されていた。その下には電話番号らしきものがかかれていて、プリーズコールミーと小さく書かれている。私は携帯電話を取り出し、番号通りにゆっくりと押してみた。何回かのコールを聞き、誰も出ないことを確かめると、便器の奥底に静かに電話を落とした。カランという音と共に先ほどのボールペンの先の上にかぶさるように沈んでいった。









私は、深いため息をついた。






さて、どうやってここから出ようかと考える。この状況から出るのは決して容易ではない。トイレの隅で見たこともない虫があおむけになって死んでいた。そこにはもう二度と戻ってくることのない時間が冷たく横たわっていた。どれだけ叫んでもその死からは逃れることはできないのだ。
私は、と思った。私がこの状況にいるということはいかなる条件によっても、それはもうすでに横たわっているそこの死のように何にも変えることのできない真実であり、何も動かすことができないのかもしれない。

しかしながら幸運か不幸か、まだ私は動けた。そして、考えることができた。それが唯一、そこに横たわっている死と向き合える私の最後の抵抗だった。

もう一度カバンを探ってみる。先の取れたペンと、血の付いたノートと、メンソールのタバコ、銀紙に包まれた小さい粘土の固まり、えっと、これはなんだっけな、そうだ、おととい麻雀屋のオーナーの中国人から久しぶりに購入した上海産のアヘンだ。パイプもある。
まずはパイプを出してみる。龍が絡みついた翡翠のパイプで、心が奪われるような深く透き通る緑の色が銀の龍と微妙な色合いの中で冷たく研ぎ澄まされている。それを眺めながら深く口に含んだ。昔の畳のにおいがした。このパイプは昔の男が私の部屋に置いていったものだ。。
フルートのように横に持って、まずは柔らかく固められたアヘンを耳掻き一杯分をとって針金の先に巻きつける。それを火にかざしながらくるくると回し丸い形に整えていく。上海のアヘンは質がよく、特に温まると柔らかくなって飴のように扱いやすくなるのだが、いつまでも回しているとすぐに固まってしまう。そして焦げやすい。火に近づけ過ぎると燃えかすを肺に吸ってしまうことになるので、練り香のように直接火にふれさせずに熱し、ほのかなケムリを起こさせる。そしてジュウジュウいってきたら手早くパイプの穴に持っていき、その瞬間にすーっと吸い込んでいく。
この手順もその男が教えてくれた。私がアヘンについて興味を持ち出したのはアルチュール・ランボーが書いたある一節をその男に教えてもらってからだった。

「いかにも愛らしい芥子の花で僕の頭をかざってくれた悪魔がわめく、(死を手に入れるんだな、お前のありったけの欲望とおまえのエゴイズム、七つの大罪全部一緒に)」

そうだ、七つの大罪だ。私はこの言葉を思い出しながら、アヘンに火をつけようとする。ただ、それを繋ぎとめるために。


その男とはアヘンに溺れながら何回も恥ずかしいことをした。私の初めてオルガズムを経験した相手でもあるが、それは最悪の思い出でしかない。(アヘンの固まりがゆっくりと火に近づく)
その男は私の足の小指を美しいと言っていつまででも舐めていた。私はそれは決して嫌ではなかったが、ぶよぶよになるまで舐められていた私の小指は私の体の一部ではないように感じた。(火は待っていたかのように固まりに吸い付き、起き上がるようにふわっと膨らむ)
また、あの男を思い出してしまった。あいつは変態だった。そして救いようのないほどに、ウツだった。アヘンがきれるといつも死にたいとか、一緒に死のうとかすぐに言うやつだった。その度に私は彼に対して嫌気がさして、いつもイライラした言葉を投げつけた。「お前」とか、「死ね」とか叫びながらヒステリックにそこら中のものを投げつけた。彼はおびえた目をして私を見つめ部屋の隅の方でガタガタと震えていた。そんな彼を見て、ますますイラついて彼に暴力でぶつけた。それはまるでサディズムの女王のように支配的な思潮に私は酔いしれていた。(グルグルと針金を回しながら、白いケムリを出す)
だけど、彼がアヘンを熱している時の姿を見るとなぜか安心した。彼はいつも感心してみとれるほどに、アヘンの固まりを操るのがうまかった。ガンジャもときどき吸ったが、これをジョイントに巻いていくのがとてつもなくうまかった。どうやって、そんなに手早くきれいにできるのかと聞いたら、おれの頭の中にはいつも小さな虫がいて、そいつがおれの手先を操っているんだよと冗談を言って笑ったが、私は本当だと思った。(ケムリは緑色の翡翠を通り抜け、肺の隅々まで行き渡る)
私は白いケムリの奥で彼のニヤニヤした顔を見るのが好きだった。サティやチャイコフスキーの激しい旋律をLDで聴きながら、彼に抱かれるのが好きだった。私の足の小指を口に含みながら、上目遣いで私を見る視線が好きだった。
彼は、彼は、彼は。
いつのまにか私の体はあの男でいっぱいになっていく。(我慢していた呼吸をゆっくりと白い空中へと返していく)


だんだん目がうつろになってきた。ケムリが目に入った。その瞬間、パイプが手からこぼれた。ガラスの鋭い音がトイレ中に響きわたり、そのあとに続くようにものすごく重い沈黙の波が押し寄せてきた。その沈黙は先ほどの鋭い音を閉じ込めるように包み込むと、沈黙はキーンとした遠くから聞こえてくる耳鳴りに変わった。気づいたときには、私は便器にうつぶせて嗚咽するように泣いていた。ガタガタとふるえながら、割れたパイプのガラスの破片を握り締めて泣いていた。

泣くのなんて何年ぶりだろうか。しかもこんな風に一人で泣くのは初めてかもしれない。男をだますために泣いたのは何回もある。こんな風に過去を振り返ってセンチメンタルになるのが、人間で一番最低な感情だと思っていた。友達が男にふられて毎日泣きながら電話してきた時に、私はぜったいこんな女にはなりたくないと誓ったんだった。自殺してやると言った彼女に簡単に男に依存するような女はさっさと死ねばいいと言ってやった。翌日、彼女はリストカットをして病院に担ぎ込まれた。傷は浅く、死ぬことはなかったが、病室のベットで彼女は両親にどうしてそんなことをしたのかと問いつめられ、私に死ねと言われたとまためそめそ泣き始めたらしい。その日に、その両親はものすごい形相をして私の家に怒鳴り込んできた。私は知らないと一点張りに叫んで追い返したのだが、その後にいやがらせの電話やファックスが多くなり、私は一度彼女に電話したことがあった。その時彼女に会いたいと言われ、会いにいった先で彼女と何人かの男に強姦された。終わった後に、彼女はハイヒールで倒れた私の顔を強く踏みつけ、あんたみたいなやつは、と何回も言っていたのを思い出した。

それでも私は泣かなかった。泣いたら終わりだと思った。男がアヘンでズタズタになって死んでも、この世で信じれる人間が誰もいなくても、大切にしていたこのパイプが割れようとも、私は泣かないんだ。

    でも、どうしても、さっきから胃のほうから込み上げてくるものが、嘔吐するように溢れてきて、抑えきれない。

私は泣きたいんだ。私は何かに泣きたいんだ。それが、何か分からなくても、今まで失ってきたものを埋めるように泣きたかった。悲しいんじゃない、寂しいわけでも、空しいわけでもない、これは一種の宇宙の儀式のようなものなんだ、どんなに幸せでも、どんなに心が満ち溢れていても、人はある時に、一人で何かに向かって泣かなければいけない。
身心の痛みはこのアヘンが埋めてくれる。だが、この宇宙の法則による、無限の痛みは何も埋めてくれない。誰もそれを支配することはできない。その絶対的な何かに対して私は激しく涙を流している。そう考えると、私はこの宇宙と、その絶対的何かと、一体化できるように思えた。常に嫉妬し続けていたものに、私が泣くことによって右にあるものと左にあるものとの調和が許されたように思えた。私が提示したかったのは、これだったんだと涙をぬぐいながら思った。アルチュール・ランボーのあの詩が私の頭にこびりついて離れないのも、こういうことだったのかと思った。「七つの大罪」とは、私が泣くことによってすべて許されるのだ。
その時、私はトイレの隅に小さなマザーテレサの幻覚を見た。そしてそれは私に、すべてを許しなさいと訴えかけていた。

私は拒否した。








そして、私はトイレを出て、彼が待つテーブルへと戻った。

瘡蓋

教室の窓に貼られたポスターが少し傾いている。
誰かが一度貼り直したようなセロハンテープの跡が上部に残っている。
そこには大きく「富士山に登ろう」と書かれてあって、富士山を、ではないのかと考えていたら、またあそこの古傷がかゆくなってきた。

昨日、あまりにひっかきすぎたので皮膚科へ行ったら、掻かないように手をベットにくくりつけて寝なさいと言われたので、実際に男に頼んで手首を縛ってもらっていたら男が急に興奮してあたしを殴った。よくわからなかったが、男が笑っていたので怒っていないことは確かだった。
殴られている間にもあたしはずっとその傷をひっかいていた。

制服はそこだけ赤い斑点をいくつもにじませ、不思議な模様を作った。
禿げた背の低い男が黒板に向かって日露戦争の凄まじさを語っている。あたしは古傷を覆いかぶさるように乗っかったかさぶたを一枚ずつめくり、ノートの線に沿って並べていく。後から膨れ上がった血液が球状になって空気に触れて粘りを増していくのがわかる。満州の制覇を狙った日本軍が、と禿げた背の低い男がへたくそな地図を黒板に書こうとしている。その白い曲線を描いただけの黒板の地図は男性の性器のようだ。あたしの細胞があたしの身体を離れ、ノートの線の上でその存在を明らかにしている。こいつらはどこへ行くのだ、こいつらはあたしをなくして、どうやって生きていこうというのだ、ノートに整列した私の赤黒い細胞に向かって叫んでみた。
突然、黒板を平手で叩く音が響き、鈍い音がしたかと思うと隣の席にいた若い男が「痛てえ」と叫び頭を抱えた。禿げた男が何かを怒鳴りながらこちらへ近づいて来る。白いチョークの粉が若い男の足下に転がっていたのでそれを禿げた男が投げたのがわかった。あたしはずっとあたしの整列された細胞たちを見つめていた。おまえたちはあたしを置いておまえたちだけで腐って死んでいくのか、おまえたちの命はあたしのものだ。
禿げた男は若い男の首を掴み、椅子ごと引き倒した。周りにいた女が高い声をあげ、あたしのかさぶたが少し揺れる。
禿げた男は若い男の首を持ったまま引きずり、部屋のドアを勢いよく開けた。
その途端にドアから入ってきた風があたしのノートを吹き飛ばした。

 


あたしの細胞は、あたしの身体を離れこの世のどこかで今も腐り続けている。

 

其の時の夜明け

さっきから私はこの町の雲行きが気になって仕方がない。

ギュルギュルと流れていく雲はさまざまな形に変化しながら私の視界の端から端を走る。
私の届かぬ世界では風は直線に流れていくと聞いた。
何処の角を曲がるわけでもなく、ただ真っ直ぐに。

うねる太陽の光とともに私たちの其の時の夜明けが始まる。


朝だ。
昨日の夜、大群の野生イノシシに狙いをつけていたオハイオのハンターたちは明日こそと今まで以上に念入りにスケジュールを練っていた。ハンターたちがこの暗くてジメジメしたジャングルに入ってから今日でちょうど一週間が経ち、長い間腐った熊の毛皮を被り体中の皮膚は黄色く変色し目はみな赤く腫れ上がっている。昨夜、それぞれのハンターたちの視覚と嗅覚が自分の存在をも腐乱し始めていた時、ついに大地に群がるイノシシの鳴き声が聞こえた。
朦朧とする意識の中で彼らにとって聴覚だけが、存在でありイメージの源である。
ハンターたちはまず、イノシシの性質を重視した。どんなに危機な時でも個別で逃走するイノシシはまずいない。走る時は必ず、前方に走る仲間の尻尾を目安にするのだ。それに彼らは目が良くない。尻尾と股間から発せられる嗅いに向けて突進する。先頭にいるイノシシを追い込めばこちらの勝利になると考えたハンターたちは、其の夜初めて安らかな眠りについた。
彼らの究極の眠りを引き裂いたのは、ものすごい音と共に見た凄まじい光景だった。
イノシシたちの群衆は朝日が昇ると共に、川のふもとで崖から落ちて死んでしまった。
朝日はゆっくりと高い山の陰から光を放ち、イノシシたちの勇気ある行動とハンターたちの疲れきった顔を照らして今日の一日がスタートする。


フランスにいる白髪と金髪が入り交じっている87歳の老婆は、毎日太陽が昇る前にパンを買いにいく。
いつもなら分厚い馬の皮でできた赤いブーツと白いニット帽を被って出かけるのだが、今日は何しろ孫の誕生日。腕を奮って得意なラズベリーパイムール貝のスープを作ろうと考える。
小さな目覚まし時計は今日も4時半にガラガラと音を立ててテーブルから転げ落ち、風邪をこじらした兎のように床で弱々しく震えている。彼女は毎朝、その兎を昨夜の鮭のムニエルとパンとコーヒーを並べながら蹴飛ばしている。
いつもなら1時間くらいかけてゆっくりとたいらげるのだが、今日は14分後には流し台に立っていた。さっき冷蔵庫を調べてみるとせっかく今日のために買っておいたムールとローリエの葉が無くなっている。何処を探しても見つからないのだ。
其の時彼女は直感でアイツだと思った。また、アイツがやってきたのだ。アイツは突然やってきて、常に何かを奪っていく。今日はまだムールとローリエの葉だけだから良い方だ。アイツは時々記憶まで奪っていく。気がつくと庭で裸で体操していたし、からっぽの水槽にセーターやらミルクやらレコードやらイチゴジャムやらをいっぱいになるまで押し込み出来上がった水槽をぼんやりとながめていたし、さっきまで何か同じことを必死に叫んでいたという意識がしっかりと喉の奥の方の痛みにひりひりと感じることもあった。
そんな時は彼女はゆっくりと深呼吸をする。
時間という流れを正確に捉えるために、今からの一時間のプランをものすごく細かく、そしてじっくりと練る。今から2分後、私はこの流れている水を止め急ぎ足で寝室に向かいタンスを開く、そして茶色のハイネックのセーターとエメラルド色のスカートをチョイスする、それがだいたい今から4分後。在り合わせの靴下と一枚しか持っていない白のウインドブレーカーをはおり化粧を始める、まずはマスカラからファンデーションに入り濃い赤の口紅を分厚く塗り最後に眉を書く、重要なのは目尻から山を作っていくことだ、化粧が終わるともう一回鏡で全身をチェックする、だいたいこの時が今から20分後。チェックは妥協を許さない、色のコントラスト、立体感、そして何よりも大切な今の自分の優越感と自尊心のバランス、すべてが完璧に揃うとそこから発声練習に入る、AAAAAーーーーFIN、FIN、FIN、フィンフィンフィン、アーーー、これを25分間続けていると頭の中には真っ白な雲しか残らない、ここで一時間が経過しているだろう。そうだ、ここで一時間だ。さあ、と顔を上げ予定通りにジャグジの水を捻ろうとした。
何かがおかしいことに気づいた。何か間違っていることが私の周りで起きている。まるで、雑誌の後ろのページでよくある間違い探しの二つの絵のように。どちらが真実なのか、わからない。私だろうか、それとも私を取り囲むすべての情景が本当の姿のだろうか、私が見ているのは何かが違う世界なのだろうか。私と、そこにいる私の分離が始まる。その割れ目を狙っていたかのようにアイツがすっぽりと入ってくる。水道からドロドロと流れ落ち真っ白な皿で弾け飛ぶ何かが何なのか、さっきから冷蔵庫からブーンと聞こえるのは私が飼っている巨大な虫なのだろうか、自分の顔に手を当ててみる、なぜ私の顔はこんなにもガサガサしているのだ、私はいったい何年間このキッチンに立っているのか、自分はもしかしたらサナギかもしれない、あちらからなにやら叫んでいるのは私の母親かもしれない、私はもう少ししたら体に何かしら変化があって美しい生き物に生まれ変わるのだ、そしてこの狭い暗い部屋を飛び出し大空に舞うのだ、ハッとした。老婆は小さな蠅が舞う黄色い電球を見ながら、にやりと笑った。其の時、彼女と、彼女のアイツが和解した。私は、まぎれもない私なのだと。私の周りで何が起ころうとも私は、私自身なのだ、それだけは誰にも邪魔はさせない、たとえ、何を失っても。
すぐに老婆はまだ薄暗いパリの夜明けに飛び出した。誰もいないいつもの坂道を駆け上がる。辺りはまだほんのりと夜の匂いが残り、やわらかな風が朝日の匂いを老婆の肌へと繋いでいた。汗が体中から吹き出してきた。
これだ、と彼女は思った。
この感じをずっと求めていたような気がする、初めて男に抱かれた次の日の朝にもこんな気持ちにはならなかった、初めて「トリコロールに燃えて」を映画館で見た時よりも、妊娠してその時の男がベットで愛してると言った時よりも、3番目の別れた暴力亭主が山で崖から落ちて死んだと新聞で発見した時よりも、借金して作った小さなパン屋に来た若い男が私を見てきれいだと言った時よりも、一番上の娘が30も離れた男と結婚したいと言い出し頼むから不幸な人生は選ばないでと泣きついた時に耳元でママ泣かないでと言われた時よりも、そして太陽はずっとそんな私たちを照らし続けているということに気づいた時よりも、彼女は感動していた。額に付いた汗を両手で拭うと、なぜか涙が溢れた。結局、こんなに簡単なことだったのに何十年も周り道をしながらようやく辿り着いたのだと思うと、どうしても涙がとまらなくなり、体の中から大量の言葉が喉をつたってあふれるように叫びだした。頭で処理できない言葉たちは自然と旋律をたどり、それは歌になった。彼女はその彼女の中にある見えないエネルギーに身を委ね、にわかに明るくなってきたパリの町を走り続けた。町が、朝日が、空が、鳥たちが、人が、「私」と共に歌っていた。「私」と「新しい私」との出会いを祝福していた。
しわくちゃになった両手を空にかざすとすっかり朝日の匂いを含んだ風が老婆をつつんだ。


なるべく、私は自分を探すようにした。毎日、毎日、一つずつ、自分という存在や原点を探し、問いかけた。その老婆のように革命を起こしたことも数え知れない。「もう一人の自分」と確実に区別し、決して和解はないと確信していた。こんなことをしてもどうなるわけでもない。ハンターたちのようにエゴと私の自尊心が猛烈に奮起したところで、私は満足した。私は今、その頂点を裸足で踏んでいるのだと錯覚しているのだ。

そして、私は今日もこの町の雲行きを見る。其の時の夜明けにはただ一定の風が流れている。

 

 

プルメリア

プルメリア
2009.07.14 Tuesday 10:27

筝絎贋違�綺茵�ず�障
その夜はうねるような暑さが大気中を流れ何人もの坊主が修行中にもかかわらず氷を口いっぱいに頬張り、やっと寝床についたのだった。

暗い蚊帳の中で一人の若い坊主が、僕はもう帰りたいとつぶやいた。

結局、その暑さのせいでどうにもこうにも寝れなかった他の坊主たちはその小さな小さなため息のようなつぶやきを誰もが聞かざるおえなかった。

シンとした一本の張りつめた糸が暗闇の中を通り過ぎようとしているその時、氷をがしがしと噛み砕いたまたもう一人の坊主が急に立ち上がった。

*ようし、それでは只今から身もよだつようなおぞましい話をお前らにきかせてやろうじゃないか。
と、目一杯声を荒げた。

大広間にあるいくつもの蚊帳の山からもぞもぞと蠢き、何人もの坊主が一つの蚊帳を目指して集まってくる。

+なんだ、皆起きていたのか。

@可笑しそうではないか。

¥それはどんな話だ。

%恐くなかったら承知しないぞ。

一つの蚊帳の中の蝋燭に灯がともされた。
炎の明かりに照らされ集まった坊主頭の影が障子の淵で揺らめいている。

*まずは、みな銭を放れ。でないと、わしは唇一つ動かさぬぞ。
なにしろわしはたった今、氷を喰ったのだ。痺れて動かぬ。少しでもそれを温めようと思うのなら、わしのふところを喜ばせぬか。

$なんだ、銭集めのたわけ者か、くだらん。

と、最長齢の坊主が怒鳴り、隣にいた坊主の頭をはたいた。

#おい貴様、銭をだせ、そうでないとこいつは本当に話さんではないか。

!いやじゃ、いやじゃ。聞いてもない話のためにどうして銭が放れるものか。

またごろごろと我がの蚊帳へ帰っていくものもおる。

辺りの大気が一層に暑さを増して、口の中の氷が溶けていくのがわかる。

*お前たちの中で、女の股口を見た者がおるのか。

#$%&+¥♤◉☆❖◯

坊主が黙る、黙る、一斉に黙る。

&◯女の股口を見たのか、大和尚が絶対に見てはいけぬと言われておったあの「かくしどころ」を?

#☆見たものは死ぬぞ

%$◉ひと月以内に死ぬぞ

坊主が一斉に怒鳴る。

*馬鹿どもよ、何ぞ見ても死なぬ、ほれ、わしがみたのはひと月もふた月も前のこと。こうしてわしがここにいるではないか。その話を聞きたい者は銭を投げえ。

最長齢の坊主が目を丸くし、もう帰りたいと泣いていた若い坊主が目を輝かせた。

銭が畳を打つ音だけが静まった夜に響き渡る。

*あの日はなあ。やたらと雨が降り続く日じゃった。

と銭袋の中を覗きながらあご髭を撫でた。

息を呑む坊主たち。

*わしがいつも通り夜更けのお経の後、便所に行った帰りの廊下の軒下で一人の女が濡れて立っておったんじゃ。女がここで何をしてるのか、と尋ねると女は黙ったまま唇一つ動こうとせぬ。
わしは、人を呼ぶぞと脅した。それでも女は前に垂らした黒髪の隙間からわしを上目でじっとみているのじゃ。まるで月を逆さにしたような目でこっちを見とる。恐ろしくなってのう、幽霊じゃと思った。わっと叫びながら、逃げようと思った。

わっと、というところで全員の身体が一瞬宙に浮いた。

*しかし、なぜか喉も身体もまったく動かぬわ。指だけが違う生き物のように震えてのう。必死にナンマンダブと心で唱えておった。
ふいに、女がけたけたと笑いだした。
わしは何度も舌を噛みながら、なぜそうも笑うのかと問うてみた。

そしたらなんと言ったと思う?

誰かの唾を飲み込む音が辺りに響いた。

*あんたの股口が開いておるぞ

#$%&+@¥
ワッハッハッギャッギャッウッホッホップップップ

+なんだ、お前のか

&お前の股口か

%そりゃ恐ろしいわい

#$%&+¥♤◉☆❖◯

皆が恐怖の中に滑稽な窓を見つけて、まるで逃げ惑う虫のように笑い転げた。

しかし、話し手の坊主は思い思いに笑い転げる坊主たちを一喝するように、立ち上がり大声で叫んだ。

*その女はいきなりわしを押し倒し馬乗りに股がり、わしの股口を喰ったのじゃ!!

と、勢いよくたもとの結び目をほどき、男の股口を露にした。

そこには股口の周りが赤く腫れ上がっているだけで、むしり取られたような皮膚が爛れて垂れ下がっていたのだった。

誰かが隣の坊主の肩に嘔吐した。かけられた坊主も前にいた坊主の背中に向けて嘔吐した。
嘔吐物が匂いを放ち、他の坊主もたまらなくなり嘔吐する。部屋中に胃液の匂いが充満する。

目を閉じ、手は天に向けられ、ゆっくりと深呼吸している。

*その時わしが見た女の股口、蛇のようにヌルヌルしておった。
真っ白な肌の先に内蔵の一部が出とるようだった。
何度ぬぐってもそこから溢れ出る液体は、わしの股口を包んでのう。

しかし、なんともいえぬ高揚感を味わったぞ。


全員が寝静まった後、若い坊主は縁側に立ち、月の光に照らされる自分の股口をじっと見つめていた。

神々しく天に向けて反りかえる身体の一部をじっと見つめていた。

 


 

chaos 2


少年はそれまでほとんど姉に育てられた。
母親は少年を産んだ直後に白痴になり、姉は6歳のころから、少年や兄の世話で毎日を過ごした。父親は漁師で3ヶ月に1回帰ってくるかどうかもわからないほどで、河を下ってはるか隣国へ魚を売りに行っていた。その時の父の存在はまるで天災のようだった。ある日窓を開けたら、いきなり父が立っていて殴られる、姉は髪を掴まれ裸にされ犯される、母がそれを見ながら指を差して笑っている、兄はそんな姉を守ろうと父に飛びかかる、少年はだまってそれを監視している、そういう役割だった。それはそれぞれがその役割について、それぞれを演じているような時間だった。少年はこの時間を忘れないでおこうと思った。僕はここにいて見る役目だから見てわすれないようにしなければ、と思った。


天災が去った後の家の中は、いつも少年が一人で隅々まで片付けた。姉は全裸で床に転がっていて、兄は顔中に血だらけの瘤を作り、母ははだけた胸を見せながらクスクスと体を震わせて笑っている。裂かれた蚊帳を広げきれいにたたみ、割れた皿を一枚一枚拾っていく。それが全部終わると姉の服をたたんで姉の近くにそっと置く。兄を外へ連れて行って井戸の水で固くしぼった布で傷口を丁寧に拭く。母にご飯を食べさせ、ドラム管に水を張り薪で下から火をかける。母と姉を連れて行き、背中を流してやる。その時になって初めて姉は泣き出し、それから夜通し泣き声が止むことはなかった。そういった一連の流れを少年は何度も経験していたので覚えている。それは記憶ではなく、体が、何千何万という細胞の核となる部分がしっかりと覚えている。


その時、父が憎いと思ったことはない。姉や兄はむろん憎んでいたかもしれないが、少年の心にはまだ誰かを憎いと思える機能が備わってなかったのかもしれない。だから父のことはただ自然とやってくる神からの災いだと受け入れていた。それによって、姉や兄が傷ついてしまうのは自分はどうしようもできないことなのだと。


姉は普段は静かに顔に笑みを浮かべていた。例えば、少年がわがままに物を欲しがった時も、兄が酒を呷り姉に対して愚痴を並べ立てる時も、母が突然気が狂ったようにそこら中の物を投げ飛ばす時も、いつも冷静で優しく誰かのその手を握り、風のように微笑んだ。兄は反対に姉のそういうところに苛立ち、家に帰らなくなってますます酒に溺れていったように思える。


ある日、スコールで畑に出れず姉が家の中で窓の外を見ながらいつもの裁縫をしている時だった。針はうねるように布を走り、姉の細く丸い指先を追いかけて走っていった糸が吸い付くように布地に縫われていく。少年は姉のそんな手先を見るのが好きだった。雨が降ると姉は決まって畑から帰ってきてから黙って裁縫に取りかかるのだった。雨の音と、するすると登っていく鋭く光る針の細かな音だけが家の中に響き、それは少年にとって何より落ち着くことができる音色だった。


姉の手先をぼんやり見ていた少年は、その手先に落ちる水滴を見逃さなかった。それは雨のしずくだったのだけれど、姉は今にもこぼれ落ちそうなほどの涙をつぶらな目にいっぱい溜めて、雨を見ていた。表情にはいつもの微笑みはかすかに残っていたように少年は見えた。目を見なかったらいつものような表情だったろう、しかしその目は何も見ていなかった。激しい雨が窓から入り込んできたが、姉はその日窓を閉めようとしなかった。窓のひさしに降る雨粒が姉の頬に弾けとんでも、黙々と手先を上下に器用に動かし続けていた。姉の長く黒い髪からつたう水滴が涙と共に、指先に落ちていく。


姉は静かに顔を歪め泣きはじめた。少年はたまらなくなってもう一度針のほうに目を向けた。針は魂を込められたようにひとりでに動いているように見えた。


次の日に姉は町に出ると言い出した。母と家畜の世話を頼まれた少年はまだ13歳になったばかりだった。村の人たちが引き止めたが、彼女の意思が固いということは彼女の目が語っていたので、皆はただすすり泣くしかなかった。少年はただ一人泣かなかった。


「行ってくるね。母さん。」
母はただぼうっと窓の外を見ながら何かぶつぶつと一人で話している。急に、ワアッと叫んでみんなが腰を抜かすのを見るのが最近好きなのだ。その時も同じことをしてケラケラと笑っていたが、誰も見ていなかった。

「ロイ、母さんを頼むよ、すぐに帰ってくるからね。ロイ!」
姉がそう話しかけた時には、もう既に少年は河の方へ駆け出していた。姉がどうして泣いていたのか、どうして街なんかに行くのか、そんなことを考えている自分が急に嫌になった。

行きたければ、どこにでも行けばいい。おれには関係ない、姉が泣いていた理由など知りたくもないんだ。何もかも嫌になって、そこから逃げてしまいたいと思った。あの河のように留まることを知らず、何かに流されながら常に変化し続けたいのだ、おれは。


少年はヤシの木の前まで、今までないくらいの早さで着いた。そこから坂を転がるようにして河岸まで走った。足場の悪い岩を駆け上がりながら、何度も岩場の間に足をとられ擦り傷を負ったが全然痛くなかった。

血だらけになった足を引きずりながら、やっと兄と昔よく来ていた岸壁に辿り着いた。

そこから見る河は何度見てもそれぞれ違う形を見せる。河辺に住む人たちが洗濯したり体を洗ったりしていた。

兄ちゃん、おれはこの街が嫌いだ、みんな何を考えているのかわからない、でもあの街には行きたくない、女が売られるってなんだ?姉はどうして食われにいくんだ?腹を引き裂かれて腕と足が切断された姉を想像した。真っ赤だった。あの時の兄の頭のように真っ赤だ。

少年は雄叫びをあげながら助走をつけて岸壁の角を片足で蹴った。その瞬間自分の体がふわりと宙に浮き、落下しているのさえわからなくさせるほどの風が少年を包んだ。


おれは、この風になりたい。一瞬でもいい、そうだ、この感覚だ。

 

chaos

深い河が目の前で流れている。
昨晩上流で降った大量の雨で河は増水し、流れはいつもよりも急だ。
細い流木のようなものが右から左へ少年の視界を猛スピードで走って行く。

これからもっと増水してここまで来そうだな、と少年は自分が立っている高い堤防から見下ろしてそう思った。
少年ははるか向こうの上流の方から吹いてくる強い風をうけながら、我が家から漂う羊スープの匂いを感じることができた。
それに今日はきっと昨日よりも雨が降る、雲一つない青空を見上げてそう思った。
少年は先ほど降りてきた坂を一気に駆け上がった。
駆け上がったところの小高い丘には一本だけ高いヤシの木があった。
もう何年も前からずっとこの場所にあるのだと村長が言っていた。この木にできるヤシの実だけは、飲んではいけないという村の昔からの言い伝えがあった。
そして住民はそれを深く信じていたのだけれど、泥酔した若者がそのヤシの木に登って実の房ごとを切り落としてしまったのだ。


その時のことは少年も覚えている。村人たちが夜中に集まって騒いでいて、母も父も外で立ち尽くしていてぽっかりと口を開けていた。姉の奇声が少年を深い睡眠から一瞬で目覚めさせ、うちを飛び出した瞬間にものすごい地響きと共に村人たちの叫び声があがった。見ると頭を真っ赤な血に染めた若い男が倒れていて、そしてまだ小さく痙攣していた。

よく見るとそれは少年の兄だった。
母は泣き叫びながらその場で失神して地面に向かってまっすぐに倒れ、父はずっと口を開けたままそこから動こうとしない。その間を姉がすり抜け長男のもとへ駆け寄る。兄は白目をむき、口から大量の白い泡を吐いていた。姉は彼の頭を抱きかかえようとしたが、頭のどこからか溢れてくるヌルヌルとした温かい鮮血で滑って何度も落としそうになっていた。姉の真っ赤に染まった手はつかみどころのない高い宙に浮かびあがったと思うとそれはすぐに姉の顔を覆い、聞いたこともない低い声でうめき始めた。


その時の幼かった少年の目はその光景にある色彩だけを焼き付けようとしていた。少し欠けた黄金の満月、黒い空、黄色い砂、ヤシの葉、赤く染まった姉の紺の裾、誰かが持ってきた松明の炎の中で光沢を帯びた様々なものが色彩を浮かびあがらせ、それは少年の脳裏に深く刻まれたのだった。     


少年はこの丘に立ってそのヤシの木の峰にそっと手を置いてみた。ここから見れば村を取り囲むようにできた三角州を一望できる。北の方を見ると、死んだ兄がいつも言っていた町が小さく見える。あの町には人がアリのようにいるんだぜ、女たちがきれいで男がその女たちを買ったり売ったりできるんだ、おれはあそこへ行って、女たちを使って大金持ちになるんだよ、お前も一緒に来るか。


少年はどうして女たちを売ったり買ったりするのかがわからなかった。町の人間は女たちを食べるのだと思った。だから姉が町に出稼ぎに行くと言い出した時に少年は恐ろしくなりやりきれない感情が涙や叫び声に変わった。食べられないよ、大丈夫。姉は笑っているのか泣いているのかわからない顔で少年をなだめた。
姉は村でも一番美人だと隣人が話していたのを聞いたことがあって、姉がそういう顔をした時にはもう姉とは会えないのだということが突然少年の頭に入ってきたのだった。