ピンクの象

高橋は誰かに似ていた。さっきからそれを思い出そうとしている。

あれは誰だっけな、ヒステリックでインドで行方不明になったトオルだったかな、あ、違う、トオルはもっと髭もじゃで、顎の辺りとかがもっとシュッとしていた、変態なセックスをたくさんしたケンジでもないし、あ、そうだ、奥さんがフィリピン人だったあのおやじだ、ううん、でもはっきり思い出せない。さっき頬を高橋に思いっきり殴られたせいだ。

脳がまだ震えてる。さっきから沸々と出てくる男の映像が振動しながら高橋の鼻の先の辺りに重なろうとしているのだが、なかなか定まらない。いつもなら、けっこう適当に当てはめられる。こういう男はこうだ、っていうようなやり方があって、それでだいたいの男はあたしと寝る。

あたしを美人だといったのは一人しかいない。ソイツはずっと昔から映画を作ってるって言ってた。君を書きたいから君の今までの男の経歴を教えてくれなんていって、ベットにもぐり込んできたっけ。そんな風に私を知りたいやつなんて初めてだったから全部話してやった。話すのは途切れ途切れで、ベランダからピカピカ光ってくる朝日を二人で見ながら、泣いたり笑ったり、時々押さえられなくなった性欲の塊が自分の股の間から強烈に匂ってきたりした。でもアイツも黙ってあたしの目を見つめてたから絶対ウソとかつけなくて素直に、お母さんに話す少女のようにありのまま話したっけ。自分の幼少の頃の初恋話から、今まで付き合った男のあそこの大きさまで。あたしをおもいっきり抱きしめて愛してくれた人から、 ボロボロになるまで犯された人まで。話し終わったら服を着ているのに、真っ裸にされたみたいになって、自分の中が空っぽなことに気づいてその男の前で思いっきり泣いたっけ。誰かの前であれだけ泣きじゃくったのは、本当に初めてだった。その後でその男が大丈夫、大丈夫なんて言って背中と頭をやさしく撫でたから、私はこうやってこの男にあたしの全部を投げ出せたらどんなに楽になれるだろうと本気で思ってしまった。しかも朝までいたのに、セックスしなかった。ずっと体中舐め合ったり、キスしたりしただけだった。それでも今までのどのセックスより気持ちよくて、彼の舌があたしの中に入ってきた時、一気にとろけた脳がかき回されたみたいになって自分がトロトロの粘膜になったような気がした。

でもその男はすぐに連絡がつかなくなった。何回電話しても電源入ってないし、メールもいっぱい送ったけど、全然返ってこない。だからどうしても会いたくて家までいったんだけど、教えてもらったところに彼はいなくて、ずっとずっと待ってたんだけど、あ、騙されたんだって思うまで本当に長かった。でもなんでアイツ、ウソついたんだろ、そんな必要ないのに、お金もセックスもない関係のウソってどんな意味があるの?おやじみたいに疑似恋愛したがってたわけじゃなかったし、それなりにハンサムなやつだったし、あ、やっぱり映画のためなんだろうか、でもなあ。

ずっとこんなことを絶対帰ってこない家の前の地面に座りながら、グルグル考えてた。結局答えが出なくて胃の下のところに石を入れられた感じに重くなって何回もケイタイ開いて閉じて開いて閉じてしてたらもうそんなことしてる自分がものすごい惨めになってケイタイをぶっ壊したくなった。変な味のするお酒をコンビニで買って抗鬱剤のクスリをながしこんでたら、頭の中に虫がいるような気がして怖くなった。

ずっとずっとお前と一緒にいたいって言ってたのに、さみしかったんだねって色んな汚いところとかも舐めてくれたのに、なんで?どうして?しか出てこない、泣けたらスッキリできたんだけど涙も大事な時に出てこないし、生理も全然ないから不安定になってるんだ、雨が降ってきた、このまま消えたいな、死のうかな、あたしが死んだらアイツどんな顔するのかな、それも小説にするのかな、それだったらそれでもいいかもしれないな、決めた、死のう、死んでアイツの記憶の中で永遠に住んでやる、そう思って何時間も座ってたところから立とうとしたら視界が真っ白になってそのまま記憶がなくなった。


気づいたら白い天井と知らない男の顔があたしを見ていた。だれだっけ、このおやじ。またクスリ飲まされてやられちゃったのかなと思って自分の手を見たら細い管が突き刺さってたから病院だってことはすぐにわかった。まだ意識がはっきりしない時にその知らないおやじがいきなりあたしの頬を平手打ちで殴った。こんなことをするんじゃないって怒鳴られて、初めて会ってあいさつもしないで殴るなんて最低な奴だって思った。殴られてあたしはなんでここにいるのかがだいたい分かってきた時にまたアイツのことを思い出して泣きそうになった。なんだ、あたしここまでしてまだアイツのことが忘れられないんだ、薄い膜があたしを包んでいて、目に見えるすべてのものがアイツに結びつけようとしているみたいだ。もう一回だけ、電話してみようかな、何か連絡ができなかった理由があったかもしれない、ごめん、電話なくしたんだって言い訳するかもしれない、いまごろあそこであたしのこと待ってるかもしれない、ケイタイ、取って、っておやじにいうと、お前のケイタイは壊れてるよと言って真ん中からまっ二つに折れたケイタイをあたしの前に置いた。

それを見たら急に涙が出てきて止まらなくなった。

どうしてあの時、おやじの名前を覚えたんだろう、あたしは人の名前なんて絶対覚えられないのに、高橋ってものすごいありふれた名前なのに、すぐにあたしの頭は「たかはし」ってインプットした。タイプでもないしお金持ちにも見えなかったのになあ。

高橋はそれからあたしが泣き止むまでずっといてくれたけど、まったくあたしにふれなかった。ただずっとそこにいて、あたしが涙と鼻水でむせかえっているのをただ黙って見ているだけだった。なんてひどいやつだ、こんなに女の子が目の前で泣いているのに背中も撫でてくれないし、ティッシュもとってくれない、こんな無神経な男がいるからこの世の女の子のあそこはさびしさで埋まってしまうんだ。何も受け入れられなくさせる。

差し出されたのは、高橋の名刺だけだった。何か困ったことがあったら連絡するんだってぶっきらぼうに渡された。すぐにくしゃくしゃにして下に捨てたけど、退院して家まで帰るタクシーの支払いをしようとカバンをあさってたらまた出てきた。なんだ、あのおやじ、弁護士なんだ、金もってんじゃん。ちょっと後悔しながら裏を見たら心理カウンセラーって書いてあった。カウンセラー?思わず吹き出してしまって、禿げたタクシー運転手が振り向いた。カウンセラーがあんな態度だったら、あたしはどんなに死にそうでつらくても相談に行かないよ。

でも結局あたしはすぐに高橋に電話してしまうことになった。