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                             円

                           zero

                          遠い月

                        大木の種

                      クリトリス

                   静止する振り子

                 お風呂場の覗き穴

                離してしまった風船

               ウィスキーのキャップ

             どこかの星から見た地球

            アルファベットの何番目か

           少年が宙に放り上げたボール

         上から見た取っ手のないコップ

       世界の内部と外部を隔てる境界線

     アフリカの女が落としていった装飾品

   孤児に差出す手に乗せられた不器用なコイン

 ファッションではないゴミを燃やす煙突の先

  愛し合う人たちが両手を繋ぎ溶け合った

  激しく降る雨の落ちてくる最後の一滴

   暗闇とはその周りにしかない通過点

   伝えたい心の周りを回り続ける言葉

    何万という精子を待ちかまえる卵

     固く白い殻に包まれた凝固する愛

      白塗りした道化人が開いた片目

       ファッションであるリサイクル

        物事Aと物事Bを結ぶひらめき

        始まりも終わりもない喪失感

          風を起こさせる何かの回転

          絶望から光へ光から絶望へ

           支配しようとする壁時計

            旅する相対的なマンダラ

               何分後かのリロード

               角度を持たない視線

                深い深い落とし穴

                    循環される音

                     二人の隙間

 


                  ブラックホール

 

                  仕組まれた永遠

 

                            私


                            私


                            私


                        あなた


                        あなた

                        あなた
                        あなた
                        あなた


         この輪を投げたのは、誰だ?
         この円を書いたのは、誰だ?


世界はこんなにもの円に包まれている、

            私もまた、あなたもまた、

 

                               。

 

                          終止符

 

石松子

私は羊だ。友達と呼べるものは、今は、もういない。昔、20年くらい前に、五頭の羊と、三頭の雄牛と二頭の雌牛と小さい人間が私の周りにいて、ガヤガヤしていたが、今はもう誰もいない。遠くに見えるハゲ山に何頭かいるのが見えるが、向こうはこちらが見えてないらしく、近づいてもこない。私から近づけばいいのだが、向こうの彼らには彼らの生活があり、向こう側の世界があるのだと思うと、どうしても行く気にはなれない。それに、わざわざこっちから行って、向こうから断られてもそれもシャクだとも思った。そういうのを「弱虫」というのだと20年前にここにいた小さな人間に教えてもらった。私が、私は「虫」ではない、羊だというとその小さな人間は、人間であろうと羊であろうと虫であろうと、そういう気持ちを「弱虫」というのだと教えてくれた。其の時はあまりしっくりこなかったが、最近になってその「弱虫」という言葉の意味が分かるような気がした。私の中にいるその「弱虫」という生き物は色々な場面で姿を表し、その度にその存在を私に明らかにすると静かに笑い、消えていった。彼が去るといつも深い霧があたりにたちこめ、それは私をいくらか落ち込ませ、そして静かに私自身を衰えさせた。

昔を思い出すことは今はもう、ない。
みなが去ってからすぐの私はじっと空を眺めたり、彼らの残り香を毎日必死で嗅ぎ回ったり、何もすることがなくなるとそっと記憶のカケラを繋ぎ合わし、静かに泣いたり笑ったりしていた。

私は孤独で寂しいわけではない。この大草原に私一人で20年間もいると、もう寂しいとか空しいとか、そういうネガティブなことは考えることもなくなり、私はただこの大地を毎日静かに眺めている。それだけでも飽きない。
大地は毎日、変化する。そして、動いているのだ。コミュニケーションはとれないが、この大草原にはさまざまな生き物が私と共に生活をしていて彼らを見ていると私は決して孤独や寂しさを感じることはなかったのだ。ただ、一つを除いて。

私はある日、昔小さな人間が私の耳元で絵本を読んでくれたことを思い出した。黒い兎と白い兎が愛し合う絵本だった。読み終えて、小さな人間は私に訪ねた。「愛ってなんだろう?」と。私は、本の最後の所を指差し、ずっと一緒にいられることだよ、と言った。今考えれば、それは愛じゃないかもしれないということに気づいた。小さな人間の母親は小さな人間のことを愛してると言ってたし、小さな人間は私を愛してると言った。それでも、彼らは今は私のそばにもういない。それでは愛とはなんだろう。もしかしたら、愛とは一時的な妄想で、この世には存在すらしないものなのかもしれない。私は本当のことが知りたくなり、いてもたってもいられなくなった。私は愛というものがしたい。誰かを愛し、愛されたかった。澄み切った青空や大草原の美しさを誰かと一緒に共有し、何かを分け合いながら見つめていたかった。私はこの思いを誰かに話すこともできず、伝わることもないまま、この生を絶えることが何よりも恐怖だった。この気持ちは毎日、毎日すこしづつ大きくなり、それと同時に眠ることが少なくなり、考えている時間が一日の中で多くなった。私はこのまま、私のことを誰も知らず、誰も必要とされずに死んでいくことを思えば、眠る時間さえ惜しかった。ある日、私はこの気持ちは決して「弱虫」なんかじゃなくて、立派な「思い」なんだと気づいた時、昔小さな人間が口をすぼめて、音を伸ばしたり、高くしたりしていたあの音の連続を思い出した。その途端、鼻の奥から何かのかたまりが弾け、私は胃に溜まったものを吐くようにその弾けた風船の中から液体が一気に流れ、洪水のように目から飛び出していった。泣いたのは初めてのことだった。それから私は、その音の旋律を思い出しながら、遠い山々に向かって大声で泣き続けた。三日三晩泣き続け、泣き終わるとなぜかとてもすっきりとしたさわやかな気持ちになることができた。

そして、私は自分の中に昔からあったはっきりしたものをやっと発見した。

視界にうつる大草原が大きく傾き、私はあの向こうにいる羊たちにこんなすばらしい音の流れを聞かせてやりたいと思った。

 

ラジオ体操

見たこともない虫が机の端で死んでいた。

その虫を見つけたのは「先生」がラジオ体操のテープレコーダーの再生ボタンを押してから2、3秒経ってからだった。
カラカラと乾いた音をたてながら、中の重い車輪が回り始める。

「先生」は水色のジャージのズボンの中にシャツが入っているかを確認するために、人差し指でゴムバンドを伸ばしている。
それがポンっと腹にあたって気持ち悪い音が辺りに響いた時、あおむけになっていた虫の足の一本が少し動いたような気がした。

私は、昨日の夜に起きたことをもう一度頭の中で整理しようとしていた。


ピアノが軽快に鍵盤をたたく。
イチ、ニイ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、

ふりあげた片手の先がすぐとなりにいた「先生」のそでに触れた。
一瞬、「先生」が動きをやめてこちらを見たが、すぐに元の体操に戻った。
もう一度、「先生」が私の方を見た時、私は突然デジャヴのような世界に陥った。

「その次は「先生」が私を殺しにくるよ」
ふいに頭の中から声が聞こえた気がした。
男の低い声だった。
動揺しまいと、ラジオ体操に集中する。

てあしのうんどう!
指先まで針金が入ったように伸ばす、伸ばす、伸ばすんだ。

ななめうえにおおきく、おおきく、おおきく。
弾みをつけて、ねじるうんどう、ねじる、ねじる。
しょうめんでほい、ほい、ほい。

なぜかこだまするテープレコーダーの音を聞きながら、私は「先生」の視線を感じている。
私は目を合わせないようにまっすぐ正面を見ているが、まだ「先生」がこちらを見ている。
「先生」の視線が私の鼻の辺りから、下におりてくるのがわかる。

私はその虫の足が何本あるのか数えてみる。
イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、

「先生」の視線が胸元から尻に向かってなぞってくる。
虫の足は短いものも入れて全部で15本あった。
ラジオ体操のかすれたピアノの音色としゃがれた中年男の声が部屋中に響いている。

昨日の夜、私は何をしたというのか。
なぜ、私はあんなところにいたのか、思い出せない。
私はひどく酔っていた。

「殺されるよ」
今度ははっきり聞こえた。
とっさに死にたくないと思った。
きっと、この「先生」の声だ。
祈るように、「先生」を見た。

はい!うしろそり、そり、そり。

「先生」の背中はブリッジを描き、頭が床につきそうなくらいに曲げていたので「先生」の表情が分からない。

そうだ、私は昨日神社にいた。赤い鳥居をくぐったのを覚えている。
そこで何を見たのか。
写真、フラッシュが私に向けてたかれていた。
そのせいか白い光が私の記憶のあらゆる隙間に挟まっていて、写真の早送りのようだ。

銅像、砂、赤い鳥居、七五三縄、蛇、爪、青い花びら、虫、虫、虫。

どんな虫だったか、そこに横たわっている虫だったか、こんな虫だったような気がする。
「先生」の視線は私の尻で止まっている。
ラジオ体操のピアノは急にテンポが早くなり、そこにいた全員が飛び跳ねて地面が揺れた。
「先生」は視線を尻に向けたまま飛び跳ねている。
イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、
あしをもどしてりょうあしとび、とび、とび!

私はなぜここにいるのか。
私はどうして「先生」に殺されるのか。
私はどうやってこの虫になれるのか。

視線、視線、視線。

15本もの足がある死んだ虫を見る私を見る「先生」が飛んでいるラジオ体操のリズムに合わせて動く私が思い出す死んだ虫が横たわる机の前で飛ぶ「先生」が見る私が見る死んだ虫になりたい私が思い出す赤い鳥居の前で死んだ「先生」に殺された私が聞こえる声を聞く私を見る「先生」が殺したい、私は虫だ。

はい、深呼吸!
「先生」が最後にそう叫んだ。
大きく息を吸い込んでいきます。

イチ、ニ、サン、シ、イチ、ニ、サン、シ、

 

そうか、私は「先生」が好きでたまらないんだ、と息を吐きながら、そう思った。



egg

白く細長い指が、白く乾いた殻に触れる。
ざらざらした表面をなぞりながら、きれいに整えられた爪が音をたてる。
一個、また一個と温かい曲線を描いた命が心地よい音をたてて、割れていく。

女はその半透明なものと、「オレンジ」色の突き出た丸いものと分けている。
女の細い指の間から糸を垂れ、粘膜がぬるりと滑り落ちていくのを眺めながら、僕はソファに深く腰掛け、煎れたての濃い珈琲を飲もうとしている。

窓の外から誰かと誰かがひそひそと話している。それはもっと遠くで喧嘩しているような声でもあり、すぐそこにいて今日の天気の話や、政治について話しているような声でもあった。

女が「オレンジ」色の丸い粘膜を口に含み、僕の隣に座った。
今日は何の洋菓子を作るのかと尋ねようとしたとき、女が僕のひざをまたぎ、ぎゅっと僕を押し倒した。頬を膨らめたその顔は恥にまみれ、目線を交えようとしなかった。長い黒髪が僕の視界を覆い、厚く濡れた唇が温かく包み込む。
ブーンと低いうなり声をあげる冷蔵庫が部屋中に充満していた。それに混じって女の唾液を吸いつく音が辺りに響く。
女は口をわずかに開き口に含んでいた「オレンジ」のかたまりを僕に自慢気に見せると長い舌で丁寧に唇に滑り込ませた。
女はまだ半透明の白い液がついた唇を舐めながら、割ってはだめよ、と言った。
ぬるぬるとした薄い曲線の膜がはっきりと唾液を包んでいるのがわかる。
脳神経が刺激され、固い歯にそれが当たるのを防ごうと僕の舌が踊る。
その度に溢れる唾液と一緒に飲み込んでしまうのを恐れ手前の喉を閉めていたら、呼吸をするのを忘れていた。慌てて鼻息が荒くなり、自分が極限に興奮していることがわかる。
ニヤニヤした女の視線が僕を更に恥にまみれさせる。
次は私に頂戴よ、と女の口が僕の視線の下にくる。

ひそひそと話していた声はもう消えていた。代わりに大型バイクのエンジン音が遠くからゆっくりと近づいて来る。夜の静寂にその音は一筋の光のように闇を切り裂いていく。

僕の舌は薄い粘膜に保たれた丸いものを追いかけるのに必死で、そのエンジン音が虫の羽音にしか聞こえない。だんだんと脳が痺れてくる。
女のぽっかり開いた真っ赤な口が僕の舌に吸いつく。
舌の先を上手に丸め、女は「オレンジ」のかたまりを受け取った。
もう一回、と人差し指を弱々しくあげ、女がもう一度上になる。
まだぬめりを帯びている口内では、何かを求め彷徨っている。
そこにもう一度「オレンジ」のかたまりがやってきた。
薄い粘膜がしっかりとその形を主張し保護している。
試しに僕はそっとその薄い壁に歯を立てた。
プっという音をたてて中から濃厚な液体があふれると同時に甘い香りが口の中に広がる。
女は僕の服をゆっくりと脱がせ、粘膜で麻痺した唇を胸に押し付ける。
熱い舌が円を描く度に淡い意識が遠のいて行くが、口の中で爆発した濃い匂いを放つものが神経を撫でるので興奮状態は覚めない。
女の唇が徐々に上へのぼってくる。唇に到達すると、僕は口の中にあった「オレンジ」の塊を女の口に押し込んだ。
女の顔が少し歪み、「オレンジ」の液体が真っ赤なくちびるからこぼれ、僕の胸に「オレンジ」の斑点を作った。

 

それは僕の胸に落ちた、彼女から垂れた「オレンジ」の血液であり、それを見て女は寂しく笑った。

テレサ(cello)part3

その週末には彼から電話があった。どうして私の電話番号が分かったんだろうなんて思わなかった。不思議に年を感じさせるその声が受話器から聞こえてきた時には、本当に心臓が爆発するぐらいにおどろいたが、その後に続くごめん、ごめんと情けない声で言い続ける彼をおかしく思って、私は笑ってしまった。「お、笑ったね。」と彼も笑った。そんな私を自分で感じるのは久しぶりだった。笑いがこみあげてくる。心が躍っている。目に映るあらゆるものが踊っている。私と踊りたがっている。このまま永遠に踊り続けたい。風も、太陽も、空も、すべてが色彩に満ちあふれ、私を祝福していた。この世界はこんなにも鮮やかだったんだ。知らなかった。今まで何回も破壊してきた「関係」の青い糸が私の体から飛び散っていき、あらゆるものとぶつかって結び直されていく。あなたと笑い合うことでこんなにも世界は変わっていく。涙がこぼれた。おもわず、彼の声が聞こえてくる受話器ごと抱きしめたくなった。慈悲で包まれている世界中の人々を抱きしめたくなった。マザーテレサのように。


彼とは何回も抱き合った。抱き合う度に私はこの世のものではないような至福に包まれ、触れ合う度に、今までカラカラに乾いていた私の心を激しく震わせ、終わった後にはしっとりと濡れさせた。まるでそれは、出会うことが許されなかった二人が、誰にも知られない場所で激しくどこまででも落ちていけるスリルをいつも感じることができた。

しかし、時々見せるあの空虚に満ちた表情を垣間見る度、私にはこの人の空虚は埋められないと思った。そして、ずっとこのまま彼といると同じような空虚に満ちた自己嫌悪に落ちていくのではないかと恐れた。

そして、ある日を境に彼はおそろしく暴力的になった。それは、彼が夜中にごそごそと何かを取り出し、火をつけていたのを私が見てしまった日だった。何してるの?私の問いに彼はただニヤけるばかりで、パチパチと燃えるケムリを暗闇の中でおいしそうに吸っていた。

「お前にはわかんないんだ。お前には。」ただ、一言こういってただひたすらに火をつけていた。ゆらゆらと揺らめく火の明かりに照らされたその恐ろしい表情を暗闇の中で見たとき背筋が凍った。それが何かわからなかったが、何かいけない誘惑の匂いが部屋にたちこめていたので、それが麻薬だということだけは私にでも分かった。どうしてなの?、とふいに涙が頬を伝い、涙声の情けない声が出てきた。くやしさと、あきらめと、嫉妬が同時に私の奥底で湧き上がって、私は急いで彼のパイプを取り上げて、窓の外へ放り投げた。彼はそれでも、そのニヤニヤとした表情を崩すことなく、私を見ていた。パイプから落ちた火種が古い畳を焦がしていた。おもわず、私は部屋を飛び出していた。彼は何か叫んだように思えたが、気のせいかもしれない、振り返らなかった。誰かがものすごい速さで私を追いかけているような気がして、叫びそうになった。どこまで来たのか、疲れてその場にしゃがみこんだ。道のコンクリートが冷たくて気持ちよかった。このまま、ダンプカーにひかれても誰も私の死体をかき集めてくれる人はいないような気がした。

私はこんなに情けない男をなぜこんなにもいとおしく思っているのか、その時の自分では決して分からなかった。ただ、彼の空虚に満ちた表情がどうしても、忘れることができなかったのだ。



彼と別れてから、すぐにチェロを辞めた。


ある日、チェロを引き取りに来てもらうように業者に頼んだ。なぜか私はその日ものすごく慌てていた。作業員に書き込み用紙を渡されて、なぜか包丁を持っていった。作業員はそれを見て驚いてとても大きな声で叫んだ。何を叫んだかは分からないが、その声がまるで戦争映画で見た軍事司令官の命令の叫び声ようで、私は怖くなってその包丁を振りかざし、作業員の腕めがけて振り下ろした。包丁は簡単に腕にめり込み、鮮やかな紅が噴出した。それはあまりにも鮮やかな色で私はおもわず見とれてしまった。作業員はぶらんぶらんになった腕を持って、泣き叫びながらもう一つの腕で私を殴った。

いてえ、何やってんだこいつ、あたまおかしいんじゃねえのか、え? おれがなにしたっていうんだよ、いてえよ、これがいたえっていうのか、こんなにいたいのはじめてだよ、おい、いてえ、くそ、こんなばいとで、ちくしょう、やっぱひっこしにすりゃよかったんだ、ちょうしにのってがっきやではたらいたのがまちがってたんだ、いてえ、こんなちぇろなんていまどきもってるおねえちゃんなんていかれたいんらんしかいねえよなあ、え? ふつうならもっとぎたーとかべーすとか、おねえちゃんだったらばいおりんとかふるーととか、かうんだろうね、そんで、それをあそこにいれておなにーとかしちゃうんだぜ、でもこのいかれたいんらんはこんなばかでかいちぇろなんてもっていやがって、そんなんでおなにーすんのかよ、え? おまえのあそこはそんなにでかいのかよ、いてえ、なんでおれがこんなめにあっちまったんだ、ちくしょう、いてえよ、いてえ、どうしてくれるんだよ、え? おれのだいじなあかいちがどんどんながれていくじゃねえか、おい、きいてんのか、え? このいんらん、おい。

私はさっき殴られた頭をおさえながら、レコードのところへふらふらと歩いた。急に音楽が聞きたくなって、ペギー・リーのLDを探し、Taint Nobody Businessに針をおいた。柔らかい彼女の歌声が部屋に響き渡る。この曲を初めて聴いたのはあの男と初めて寝た時だった。ジャズなんて聴いたことなかったが、なんて心を落ち着かせる歌声だろうとうっとりした。このおばさんは、声を潰すためにわざわざ海でずっと歌ってたんだと男は腰をゆっくりと動かしながら言った。海岸で一人の女がこんな声を得るために海に向かって何度も同じ歌を歌って必死に練習している姿を想像してみた。それはあまりにもちっぽけで、滑稽だった。一つのことに対して、何もかも捨てて必死に追い求める姿を人に見ると私はおかしくてたまらなくなった。そんなことをしても何にもならない。誰も褒めてくれない。誰も認めてくれない。やっとそれが手に入っても結局それしかできなかったということだけなんだ。そんな限られた人生なんて、想像しただけで吐き気がする。

おい、いんらん、おまえ、わかってんのか、おい、いてえんだよ、おれは、けいさつよぶぞ、いや、びょういんのほうがさきだ、だってほら、こんなにちがでちまって、どうしてくれるんだよ、いてえ、おれはな、こんなばいとをしながらかねためてあのかわいこちゃんのためになんかかってやろうとしてるんだよ、あのかわいこちゃんはな、おまえみたいないんらんじゃなくてな、まいにちくまさんのにんぎょうとかだいてねてて、せっくすのせもしらないようなめちゃくちゃじゅんすいなこなんだよ、おなにーもしらないんだ、どうしてわかるって?そりゃおれがわざわざでんしそうがんきょうまでかってかんししてるからだよ、まいにちまいにちたいへんなんだぜ、にっきもつけなきゃいけないんだ、からだのどこにほくろがあるとか、どこにけがはえてるとか、さいきんあそこにちょっとうぶげがはえてきて、あのこはそればっかりきにしてる、かわいいよな、たまんないよな、おまえみたいにさかなのくさったみたいなにおいなんてしないんだぜ、きっとせっけんのにおいしかしないんだ、あ、そうだ、さいきんはせっけんじゃなくて、あそこにだぶのしゃんぷーつけてるんだった、わすれてた、わすれちゃいけないことわすれてた、おまえのせいだ、おまえがいきなりほうちょうでおれのうでをきったからだ、ちくしょう、ぜんぶおまえのせいだ、おまえなんかどっかのすらむでうしみたいなおっぱいだしていろんなおとこにまわされればいいんだ、あのかわいこちゃんとはぜんぜんちがうんだ、あのこはおれだけのもんだ、おれがさいしょにあのこのうぶげのはえたあそこをなめるんだ。

私は作業員のどんどん膨らんでいくあそこを見ながら、あの男のことを考えていた。彼と別れるとき、彼は私に粘土のかたまりのようなものを置いていった。アヘンだった。最初よく分からなくて少し舐めたりしてみたが、まずかったのでそのままにしておいた。しばらくたって、彼から電話がかかってきた。「おれがお前に渡したやつ、やったか?」「お前は溺れんなよな。お前はおれの初めての女だったから、お前ははまんなよな。捨てろよな。」と言ってしばらく沈黙があった。彼は何か私に言って欲しそうだった。思いっきりののしって欲しそうだった。泣きついて戻ってきてと言って欲しそうだった。

じゃあ、どうして私に渡したりしたの、おかげで私の人生はペギー・リーのようになった、一つのことしかできなくなった、誰にも関係を持てないようになった、私はあれからあなたのことをずっと待ってた、いつかこれを取りに来るんじゃないかって待ってた、石を積みながら、あなたが褒めてくれるかもしれないと思って、いろんなことを破壊しながら私は待っていた、孤独なんて思わなかった、あなたがいたから、あなたがすべてだったから。

結局、私は何も言わず電話を切った。そして、もう一度アヘンに火を点け白いケムリを深く吸った。


しばらくして、私はギリシャに来た。アヘンの最古の土地、ギリシャクレタ島にはデメテールと呼ばれる女神象がある。最初にアヘンを発見した女神、それは古代ギリシャ語でケシを意味するメコンと呼ばれる土地だった。そこは神と人間を分かつ土地。

この目で見たかった。彼が私に置いていったものの正体をずっと追い続けていたからだ。それがアヘンであろうと、石であろうと、関係性であろうと、破壊であろうと、マザーテレサであろうと、私にとって唯一の物だった。

イラクリオン考古学博物館のガラスケースに入れられたアヘンの女神は私に、お前たち人間には何も及ぶところなど一つもないんだと言わんばかりに、両手を上げ安らかに目を閉じていた。とてもやさしい顔をしていた。私にも、こんなやさしい顔ができるのだろうか。すべての痛みを解放出来る時、人間は、私でさえも、こんな女神のような表情になれるのかもしれない。アヘンはこの世で一番美しい自然の驚きと喜びの贈り物なんだとイングリッシュパブのギリシャ人が言っていた。それがなんであれ、私にとってはこれはただの粘土の固まりにすぎない、火をつけると過去への謝罪にしかない、と私がいうと、お前は中毒者だ、ガン患者のようなものだ、と言われた。

それから、私は昔ケシ栽培が盛んだったシキオンと呼ばれる土地へ足を運んだ。今では一本のケシもない。丘の上から見渡せる海がとても心地よかった。海のはるか向こうから吹いてくる風が私の頬をなでた。

ここで、どれだけの人がアヘンに依存したのだろう。どれだけの痛みをアヘンによって解放されたのだろう。私のように、底なしの沼に何かを埋めるようにアヘンを求めた人はいたのだろうか。きっといたと思う。人類のあらゆる痛みからの解放から、無感覚からの本当の痛みを引き出させるアヘンのすごさを知ったものもいただろうと思う。私は後者でよかったと思った。人間は痛みを忘れたら終わりだ、痛みがあるからこそ生きている感覚があるのだ。アヘンはそれを私に教えてくれた。

ここで過ごす夏は日本のどっぷりとした夏ではない。太陽の質が違う。私は今日もヌードビーチで寝転びながら、男のブラブラと垂れ下がる黒いペニスを見ながら、ドライマティーニをおかわりする。ここのアヘンは輸入もので質が悪いので、最近はコカを買っている。

テレサ(cello)part2

チェロを始めたのは、その男と会う6年ぐらい前からだった。私は孤独だったが、その大きな存在感のあるチェロを抱きしめていると、不思議と心が安らいだ。まるでそれは男にあつく抱きしめられている時のようで、初めて手を触れた時、私の胸を熱くさせ、不思議だが少しだけ濡れた。弦は硬く締まっていて、それを指先で少しはじくと音のかたまりが胸を震わせ恥ずかしそうに私の中に入ってきた。それは低く、深く、いつまでたっても消えることのない振動だった。それはまるで、バージンを失った時のように繊細でどこか荒々しく、不器用な音だった。チェロの先生が弓で軽く擦った時には、私は一瞬気を失ってここがどこか分からなくなるほどだった。柔らかく、美しい旋律が私をどこにも行かせなかった。私は先生に正直にそれを告げると、先生はチェロやバイオリンのような弦楽器の弦にはさまざまな命が具わっているのだと言った。そして、私たちはその命を音として解放してあげているにすぎないと。


すぐに私は近くの大型楽器屋店でチェロを注文した。値段を聞いた時は、おもわず息を呑んだ。そんなに持ち合わせがなかったので、長年愛用してきたBMW109をすぐに売りに出した。昔の男に貢いでもらったものだったのだが、実はけっこう気に入っていた。タイヤも新品に交換したばかりだったし、車検も終わってすぐだったので、意外に高く売れた。売るのはやはり少し惜しかったが、チェロが家に届いた時には、本当に涙が出そうになった。私の部屋は狭かったので、部屋を見渡すとあまりのその大きな存在感に周りにごちゃごちゃとあったものがそのチェロを中心にしてとても落ち着いたように見えた。
そっと後ろから抱きしめると、チェロは恥ずかしそうに私を受け入れてくれ、まだその不器用な音をためらいながらだしてくれた。その振動は胸を伝って私の中に入り、私の中にあるすべての感情を昂ぶらせた。何もかもがその音色によって中和されていくような感動を覚えた。

そうして私はチェロの音色にはまっていったのだった。

ある日、小さなバーでタンゴのカルテットに参加した時、前のカウンターの端でひょろりと座高の高い男が激しく揺れる私の指先を見つめていた。演奏が終わっていつものように丁寧に弦を拭いていると、その男が話しかけてきた。少年のような無邪気な表情をして、おつかれさまです、と笑った。

笑顔は少年のようだが、服装や目つきや声のトーンは妙に老けていて、そのギャップが私の興味を膨らませた。お疲れ様、と私はわざといかにあなたと話したくないかということを体の全面から出しているように見せた。そういうことは得意だった。日常に誰に対してもそういう風に生きてきたから。

「よくここで弾いているんですか。」と彼はそんな私を無視するかのように、更に無邪気な笑顔で聞いてきた。私は無視されたことに、少し腹立たしくなり、そうよ、とぶっきらぼうに宙を見ながら言ってやった。

「へえ、いいなあ。おれ、ここは初めて来たんですけど、今日の演奏、よかったなあ。」彼も同じ方向の宙を見ながら言った。ふと、彼を見ると、さっきの無邪気な笑顔は消えていて、代わりにこの上ない悲しみに満ちた表情に変わっていることに気づいた。その時の彼の表情が今になっても、手に取るようにありありと思い出すことができる。

「あなたの指、見せてもらってもいいですか?すごいですよね、女の人であれだけ強いチェロベースを弾く方ははじめて見た。」と彼はおもむろに私の手を取り、指を撫でた。あまりにも自然で私はしばらくあっけにとられて、何も言えなかった。自分の胸が突然のことにだんだんと飛躍し始めているのに気づいた時、やめてよ!と叫んで、いつのまにか彼を突き飛ばしていた。こんなに自然に誰かが私の中に入ってきたのは初めてのことだった。

私の今までの努力がまるで無駄だったかのように、そういう私を見透かしているかのように、彼はごく自然に私と彼の間に関係を作ろうとさせた。それがものすごく不快であって、なぜかすこし安堵させた。

その後のことはあまりよく覚えていない。確か彼は、手をすり合わせてごめんを連呼し、それを無視しながら家に帰ったような覚えがあったのだが、私はいつのまにか、ホテルのバーでドライマティーニをおかわりしていた。酔いつぶれてたんだと思う。朝、起きると隣で知らない男が寝ていた。あの男だったら、と胸が騒いだが、寝ている後ろ髪を見ただけで違うと分かった。

なぜかあのわずかな時間で私は彼のあらゆる容姿を覚えてしまっていたのだ。髪は短く、ボサボサだった。細長い一重の目はゆるやかな曲線を描き、眉間に下っていた。尖った右眉に小さい古傷があって、笑うとそれがプクッと膨らんで深いシワになった。唇は薄かった。そして、大きな耳。

でもあの一瞬の悲しい顔はまるで別人だった。あんな顔をされたら誰だって掻き乱される。もしかしたら、私にだけ見せてくれたのかもしれない。あの笑顔も本当は私にだけ・・・。

私は下着をはきながら彼の一つ一つを思い出し、ニヤニヤした。そして、そんなニヤけてしまう自分がとても恥ずかしかった。今まで誰とも心の関わりを拒否し続けてきたもう一人の自分への恥だった。今更、私になにができるのかという恥だった。

でも、どうしてももう一度だけ彼に会いたかった。もう一度会ったら私は今度こそそんな自分をはっきり否定できるんだ。冷ややかな目を向けているもう一人の孤独な自分につぶやいた。もうちょっと待っててね、私はあんたを裏切らないから。

しかし次に彼に会った時には、すでに私はもう一人の自分を裏切っていた。

テレサ(Cello) part1

2009.04.26 Sunday 01:20
また、夏がやってきたのだ。

早いものでここに住むようになってから今年でもう十三回目の夏を迎える。そういえば、あの時も同じように、こんな暑い日に遠い空で浮かぶ白い雲をぼんやりと眺めていた。 
あの時と違うのは、私が住んでいる場所がまったく変わった言語を話すことと、あの時よりも幾分、年を取ってしまったということだけだった。

古くなったチェロはあれ以来弾いていない。誰も触れることのない黒い沈黙に包まれ、くたびれた壁にもたれながら眠っている。すっかり錆びた四本の弦の上には、蜘蛛さえ出ていってしまった時間の経過だけがこんこんと降り積もっている。
私はそのチェロが置いていった時を眺めていると、ものすごくぼんやりしてしまう。

時々、その上に手をかざしてみる。ひんやりとしたその空間は、沈黙を守り抜いて静かにもてあました時間を殺していた。

もしもあの時、私があの男に何か言ってやれれば、彼は何も失うことはなかったんだろうと思う。それよりももっと大切なものがあって彼がそうしてしまったという事実がその理由としてあるのだが、結局のところ、私は何もできなかったように思える。誰も動かせないような決断がしっかりと彼の奥底で根をはり、立派な葉をつけ、青々とした果実が成っていた。それが自然と熟して落下し死んでいくことは、私自身とは全く関係のないところで行われている一つの自然のサイクルにすぎなかった。たまたま、そこにいた私は砂煙に巻かれて、うっすらとそれを見てしまっただけだった。

しかし、一般的に人はそれを「関係」という。ただの傍観者でさえ、映像や音としての情報が自分の中に入ってくるだけで、その瞬間からそこにある実態に「関係」を持ってしまう。ただそれは受身だけの「関係」なのだが、それに応じて何かしらの反応をそこに示してしまうとその「関係」は確かなものになり、少なからずその相手の世界に影響を与えてしまう。
私はどちらかというと、彼に出会う前にそういうことは熟知していた。そして、そういうことに対してとても慎重だったと言ってもいい。

だからその頃、私は決して他人の発した情報を受け入れようとしなかったし、私自身からも誰に対してもあらゆる「関係」を完全に遮断した。例えば、顔の表情を変えないように、毎朝化粧する時間を短くして、代わりに長い時間あごや頬の筋肉を丁寧にほぐしていたし、人と話す時も、イライラした言葉を並べ立てて口が切れそうなぐらいに早口にしゃべるようにした。しぐさや癖も自分なりに調節しながら、新しいことをテレビや新聞などで研究しながら自分自身のものとして作り変え、取り入れていった。


社会ではなるべく目立たないように心がけた。どうしても「関係」を作らないと生活できないような相手とは、なるべくうまくやった。まず境界線をまっすぐに引き、シンプルな言葉を選び、シンプルな相槌をうち、シンプルな情報の交換を行った。その相手は相手にしかすぎなかった。私と相手、私と何か、私と石でも会話は成り立ちそうな気がした。それに気づいた相手は顔を不思議な形に歪め、居心地悪そうに私から去っていった。そういった私の生活は、私をある程度孤独にさせたが、昔のような他人に期待したり他人に自分を見出したりしなくなった分、洞穴のような空虚感を味わうことは少なくなった。私は自分で自分の世界を築き、そこに生きていた。外部と内部に分け、その繋がりを持たないように常に心がけていた。

何もすることがない日には、海岸に出掛け、石を集めた。なるべく丸くて小さい石を集めた。そして、その石を大きいものから順に一つずつ、ゆっくりと積み上げていくのが何よりも楽しかった。不安定に積み上げていく危険とスリルに満ちたそのゲームは、バランスを失い、崩れ落ちた時が一番興奮した。崩れていく瞬間に何度もフラッシュバックのような断片的な映像を脳裏に見た。晴れやかに野原を駆けていく子供たちの笑顔や、豚を解剖する時の実験画像や、何千万という人々がイスラム教の式典に同時に集まってくる時の映像などを、リアルに、そして一瞬に見た。それらは私を幾らか圧倒し、抑制し、崩れ落ちていった後にはオルガズムを終えた時のように私の精神を安定させた。その快感は破壊だった。今まで一生懸命に積み上げてきたものが音を立てて一瞬で崩れて行く姿は、あまりにも滑稽で、おかしかった。そして、何度もリセットされていく石たちと時間を比較し、私は私とその石とその物事の破壊の繋がりについて考えてみてみると、そこには破壊における爽快感にその深い「関係」の結び目を見つけることができた。


あの男に出会った時、彼は私のその破壊に対しての定義を何度も褒めてくれていた。